右翼とは何か:支配と人権抑圧

XiJinping中国政府は極右である。安倍政権も極右であり、両者のやることには似た者どうしで類似点が多い。と書くと「共産党の中国政府が極右とは!?」と思われるかも知れないが、共産主義であろうとなんであろうと、右翼・左翼の語源に遡って考えれば当てはまってしまう。

Wikiの記述をまとめると:
「右翼」と「左翼」の語はフランス革命の間に作り出された。革命後の国民議会で議長席から見て、「右翼」(右側の席)には旧秩序の維持を支持する勢力(王党派、貴族派、国教派など)が、「左翼」(左側の席)に共和派や世俗主義などの急進派が占めた事に由来する。

端的に言うならば:
右翼:支配層であり続けたいと望む人々とその仲間
左翼:自由で平等な社会を望む人々

支配層に居座り続けたければ、真っ当な政治をすれば良い。自由で平等で人権が護られて、そこそこ暮らし向きが良ければ、長期政権を維持できるはずである。しかし支配層の利益ばかりを優先したりすると「右翼」的になり、支配層に居座ること自体を目的にするようになると「極右」になるというのが本稿の見方である。

stalin共産主義国家も政権を樹立した途端に極右に変質するのが歴史的事実である。反革命分子とレッテルを貼るだけで、非常に多くの人々の人生と命を弄んできた。スターリンの恐怖政治や毛沢東の文化大革命などが好例である。「銃口から生まれる政権」は本質的に極右である。その現実への幻滅から共産主義は衰退した。

中国はもはや共産主義国家ではない。共産党と自称する支配層が治める国家であり、最近は彼らの支配を存続させるためだけの政策がやたら目立つので、「極右」と評する次第である。

フランス革命の自由・平等・博愛の理念は「フランス人権宣言」(1789)で顕され、幾多の紆余曲折と戦乱を経て、国連総会での「世界人権宣言」採択(1948-12-10)で世界基準となり、「国際人権規約」発効(1976年)で世界中の国家が遵守すべきものとなった。つまり「左翼」の理念は、今や人類の普遍的な価値となり、政治の正道として基本中の基本になっている。

一方、右翼には理念がない。右翼の目的は支配層でありたい(なりたい)ことであって、理念を実現することではない。いやいや、右翼はどこの国でも「民族の誇り」、「伝統的文化」、「偉大な国家」、「愛国心」などと並べ立てるではないかと思われるだろう。正にそれこそが右翼に理念のないことの証拠と言える。

理念が何もないので、国民の多くに共感が得られ「そうな」言葉を並べているに過ぎない。国民の多くが共通に持ってい「そうな」イメージに訴えるのが常套手段だ。しかしそれらの言葉やイメージは底が浅く、一歩突っ込んで「それは正確にどういう意味か?」と中身を問えば、まともな答えは返ってこない。根拠がなく誤解だらけだからである。

一国あるいは一地域の歴史は短くとも数千年、人類史的には数万年の範囲で見なければ、正しい理解は得られない。広く深い知識を必要とするし、多くは一つの見方に限定できる性質のものではない。従って通常は、過去100年ぐらいの範囲で通俗的な分かり易い事例を引き合いに出し、あるいは版図が最大であった時代を念頭に「偉大な国家の復興」とか言うのが、よくあるパターンだ。

hitler中国政府が「清朝時代の最大領土を回復」と言うのが好例である。しかし事実は、チベットもウイグルも内モンゴルもほぼ独立した自治国家であったので、これらの地域はむしろ朝貢貿易で結ばれていただけの李氏朝鮮や琉球に近い。ヒトラーのアーリア人対ユダヤ人の民族差別はまるでデタラメである。

安倍政権/日本会議/神政連は大日本帝国の皇国史観を念頭にして「日本の伝統」と称しているようだが、明治維新から敗戦までのこの80年足らずの期間は、日本史上の特異な例外でかつ大失敗例である。大和民族なるものも存在しない。日本人は意外にもDNAの多様性が広い人々の集合なのだ。【注1】

右翼の共通点として国家主義がある。この脈絡からも、「民族の誇り、伝統的文化、偉大な国家、愛国心・・・」などを常套句とするのには必然性がある。「始めに国家ありき」で、それに相応しい支配者は自分たちであり、国民はそれに従うべきという発想である。自民党憲法改正草案の前文には、この間違った考えがあからさまに表明されている。この前文だけで、自民党は極右であると言える。

現代(1945年以降)の国家とは何だろうか? まず主権者たる国民があり、国民が自由・平等・平和で人権の護られる社会(経済的な裏付けも含まれる)を作るために、憲法を通じて国家の大枠を定める。「主権者たる国民→憲法→国家→選挙で代表者」の順で、話の筋道が展開するはずである。

右翼はほぼ逆の発想だ。「国家→支配者→ニセモノ憲法→国民を支配」の順になる。右翼は国民を国家の構成員としか見ない。彼らから見れば、国民は労働し、税金を払い、国家に対する義務を果たすために存在する。国民が個性を持ってバラバラな主張をしては困るのである。基本的人権は邪魔でしかない。この発想は自民党草案の至る所に見られる。

支配層意識あるいは支配層のお仲間意識を持つ右翼には、被支配者たる国民への共感はなく、冷血な「自己責任」論を言うだけで救済せずに放置し、異なる立場の者には差別的・排他的である。

abe「一億総□□」は支配層意識丸出しのたいへん不快な言葉である。一億総活躍、一億総貧乏、一億総奴隷、一億総玉砕・・・など「戦前回帰」の国家主義的発想そのものである。そもそも残りの2600万人ほどはどこに行ったのか? 無視するのか? それとも支配層が2600万人も居るのか? 冗談は止めてくれ!

右翼が最も非難されるべき点は「外部に敵を作りたがる」ことだ。国家主義を推進するには、メディアを操作して外敵の脅威を煽るのが最も安易な方法だからである。安倍政権は戦争法案を通すために、まるで無関係なのに中国の脅威を煽り利用してきた。中国(の軍部)はその動きを日本軍国主義の復活と非難して、軍事予算拡大の口実にしてきた。右翼政権どうしで互いに利用しているが、それはたいへん危険なことである。国家主義と軍拡競争は1930年代の悪夢である。

中国政府に対抗する最も有効な方法は、中国国民の立場になって、基本的人権の尊重と報道の自由を求めていくことだ。それが中国を民主化・平和化する正道だ。しかし安倍政権は逆に、中国政府の真似をして相手を助けているのだ。

ところで日本国憲法には(自民党草案にも)、警察につき一切の記述がない。軍についても、持たない、戦争しないという9条があるだけだ。つまり警察とか自衛隊は、国家を形成する上で副次的であることを意味している。警察を持つのが国家の目的ではないし、自衛隊を持つのも国家の目的ではない。国民の主権や公共の福祉を守るために副次的に必要になるのだ。

国家は戦争をするために存在するのではない。国家は人権を護るために存在する。最大の人権侵害である戦争を避けるために国家は存在する。だから我々国民は、軍を持つことを目的とし戦争をしたがる連中を真っ先に排除せねばならない。


【注1】篠田 謙一 (著)「日本人になった祖先たち: DNAから解明するその多元的構造」、崎谷 満 (著)「DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?」。

様々な時期に、様々なルートで日本に辿り着き、DNAタイプも幅広く異なる人々の集合体が日本人である。DNAの多様さは世界的にも珍しいとされる。比較的気候に恵まれた日本は、どこでも十分な降水量があり、豊かな植生や海の幸もある。複雑な地形である程度隔てられたそれぞれの地域で、争うことなく、平穏に暮らしたのであろうと、上記著者らは推論している。日本の歴史的本質は「平和的で地方分権的」と言える。大日本帝国とは真逆である。


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