ー 半島移民の国であることを強く示唆 ー
日本という国号は、天武天皇(在位 673〜686)の時代から使い始めたという。702年の遣唐使が公式に(倭ではなく)日本と名乗り、これを唐も認めて正式となった。それ以前の原型として、推古天皇の有名な「日出ずる処の天子・・・」文書(607)がある。さらに以前の、国号・日本の起源はどこにあるのだろうか?
もし日本に居るだけならば、「日出ずる処」とか「日の本」という発想は出てこない。太陽は東の海か山か平原から上がるので、自分達が住んでいる場所が「日出ずる処」とは決して思わない。発想し得るのは、西側近隣に位置する外部の人である。古代において、それは事実上、朝鮮半島南部に限られるだろう。
天武天皇が編纂を命じた、日本書紀に正にその記述がある。日本という呼称は朝鮮半島が起源、と判るのである。神功皇后が大軍を率いて半島に遠征する物語において、新羅の王の言葉として:
『吾聞く、東に神国有り。日本と謂ふ。亦聖王有り。天皇と謂ふ。必ず其の国の神兵ならむ。・・・』 「日本」国号の由来と歴史 p. 34より
新羅王は大軍に畏れ戦わずして降伏し永久の服従を誓ったと物語は続くが、もちろん史実では全くない。重要なことは「日本」が初登場したのがこの場面であり、
『日の出る東の方にあることを尊び、称えて呼んでいたのが「日本」であり、それを国号として受け入れた。』 「日本」国号の由来と歴史 p. 40より
つまり朝鮮半島の人々の観点から、好意的な呼称と思われる「日本」を採用したと書かれているのである。
なお、「天皇」と称するようになったのも、天武天皇からである。
またなお、日本書紀以前の国号は「倭」であり、中国から与えられたものだ。2700年前に神武が建国したと謂いながら、日本独自の国号は存在しなかった訳で、この一点だけでも建国神話が空疎なものだと判る。
神功皇后は卑弥呼をモデルとする架空の人物
神功(じんぐう)皇后は、仲哀天皇(192〜200)の皇后で、摂政として201〜269まで君臨し、亡くなった時は100歳という! 201年に半島へ初遠征し、同年に応神天皇(270〜310)を出産したとされる。
仲哀から応神までの70年間の空位を、神功皇后が埋めている訳であるが、空位なのに摂政とは矛盾するのではないか。いずれにせよ、仁徳天皇(313〜399)までは、実在せず架空と考えられている。
天皇は男系男子のはずが、実質的な天皇として神功皇后を日本書紀に登場させた理由は、卑弥呼の存在がある。
「魏志倭人伝」を始めとする中国や朝鮮の史書多数の記述から、邪馬台国の卑弥呼の実在に疑問の余地はない。在位は184頃〜247頃とされ、異例の長寿である(或いは官位の名称の可能性もあり)。卑弥呼時代に、倭国軍は2回も(208年頃、232年頃)新羅に侵攻し、いずれも撃退されている。
日本書紀の編纂者は史書の記述を踏まえて、神功皇后を創作せざるを得なかったと思われる、ただし勝敗を逆に捏造して。
ここで2つ大きな疑問が生じる:
● 卑弥呼はなぜ無謀な新羅遠征を企てたのか? 海を渡るほうが圧倒的に不利なことは自明のはずだが。
● 日本書紀では、新羅を屈服従属させ属国の如く見下しているのに、なぜその地での呼称を倭国の国号として採用したのか? 例えば中国の王朝が、異民族や夷狄(いてき)が用いる呼称を国号に採用するであろうか、あり得ない!
この時期の日本史は解りにくい。謎がいくつもある。しかし以下を仮定すれば氷解し、2つの疑問を始め、ほとんどの出来事が必然的な流れとして理解できる。
『朝鮮半島の伽耶(かや、現在の慶尚南道あたり)からの移民が主流で日本の支配層を成していた』
朝鮮半島南部(伽耶)は祖先の出身地、死守すべき領地
伽耶は対馬に最も近く、古来から対馬/壱岐を経由して九州と交易があったという。日の本、太陽が登る東の土地という呼び方も、この辺りで始まったはずである。
伽耶は平地が限られているため、強国となるのは難しく、常に周辺国から圧迫されていた。ただし鉄器の生産では当初先行していたという。朝鮮半島では歴史的に、平壌や漢城(ソウル)を本拠とする王朝が主流となる。平地の広さで決まる地理的必然である。主流の王朝は中国の方を向き、東のはるか遠方の地・「倭」なぞにそもそも関心がない。
他方、圧迫された伽耶の人々が、「日の本」に新天地を求めて移住を考えるのは珍しくはなかったろう。何代も前に日本へ渡った人の子孫が、新しい土地を開きその地を支配する豪族になっている、といった成功話が流れてくる。英国から逃れて、米国に渡った移民のサクセスストーリーと同じようなものである。日本はより暖かいし、より広いし、雨も多い。米を作るにはより適している。東南の海の先に希望の土地がある。そういう憧れの気持ちも「日の本」という言葉に込められていたのではないか。
日本に移住した人々が、初めて纏まって国らしきものを形成したのが、卑弥呼の邪馬台国である。女性をトップにすることで、男どもの争いを収めて一つに纏まるという知恵が生まれた。この手法は、推古、皇極=斉明天皇の即位でも再現された。
邪馬台国はおそらく九州北部に本拠があり、壱岐、対馬、伽耶を領地とし、とりわけ祖先の出身地である伽耶は死守すべき土地と認識していたのではないか。つまり倭国とは、伽耶から発して日本に膨張したものであって、国境は対馬海峡ではなく、朝鮮半島南部に存在していたと考える。倭国に余力があれば、伽耶に兵を送り、周辺国からの侵略を跳ね返そうとしたはずで、卑弥呼による派兵がその最初だったのであろう。
伽耶を巡っての倭国、新羅、百済、そして高句麗も含めた戦いは、長い複雑な歴史がある。倭国は伽耶を最終的には保持できず、新羅に奪われ、次いで百済に奪われる。百済は、新羅や高句麗に対抗するために、伽耶の領地の年貢を払うなどして倭国と良好な関係を保った。多くの人的交流もあった。しかし百済は660年、唐と新羅の連合軍に負けて滅亡する。伽耶の地は、倭国から完全に切り離されてしまった。これが白村江の戦い直前の情勢である。
白村江の戦いで惨敗、完全に断たれた絆
当時の斉明天皇は、滞在中の百済皇太子や重臣らから再興の要請を受けて、派兵を決意する。彼女はかなりやり手の人物とされ、どのような勝算があったのか分からないが、卑弥呼、推古の女帝の時と同じく、対外的に積極策に出るだけの国力があったのだろう。
それほど伽耶が重要だったのだろうか。大陸そして朝鮮半島は、古代にはずっと技術や文化の上流であった。日本の支配層にとって、朝鮮半島との交流を保ち続け最新の技術や文化を導入することが、支配層に留まり続ける力の源泉になっていたのではないか。朝鮮半島には親倭的な勢力が存在してほしい、そういう望みもあったのではないか。
斉明は瀬戸内海各地に寄港し兵を募りつつ西進している途中で、急逝する。後を継いだ中江大兄皇子(後の天智天皇)は、既定路線として戦争準備を進める。
当時の日本の人口は3~4百万人と推定されているが、3万人もの兵を白村江に送り込んだのだから、驚くしかない。自分たちのルーツの土地を取り戻すという動機なくしては、とうてい理解し難い大規模派兵である。
ともかく、白村江の戦い(663)は完膚なき惨敗で終わった。百済再興の夢は消え、唐の支援を得た新羅が朝鮮半島を統一した。伽耶の地を取り戻すすべはなくなり、対馬海峡に明瞭な国境線が初めて出来た。倭国は名実共に半島との絆を断たれた。
半島とのへその緒を断たれ、日本の支配層は大いに困惑した。自分達のアイデンティティ、支配者であることの血統/正当性が失われてしまった。だから「古事記」を編纂させ、はるか昔の創世にまで祖先は遡るという神話をでっち上げなくてはならなかった。「日本書紀」では、朝鮮半島の諸王朝を属国のように見下した書き方をすることで、自分達を強く見せかけ、関係を断たれた鬱憤晴らしをした。
この時代の日本史が解りにくいのは、半島からの移民が建国したという側面が徹底的に矮小化、隠蔽されているためだ。それが天武以降の改竄された歴史観であり、明治政府によりさらに徹底された。
しかし何よりも「日本」という国号を選んでしまったという事実は、朝鮮半島コンプレックスの現れである。「日本」という国号そのものが、当時の支配者・天皇家が半島出身者の後裔であることの証拠だと言える。希望の地「日の本」に渡った朝鮮半島人祖先の見方を採用したのだから。