イジメ防止に役立たたず、むしろマイナスではないか?

【中1道徳教科書への横断的コメント】

道徳教育はイジメ防止に役立つのではとの期待もあるようだが、現実の教材を読む限り、とてもそうは思えない。むしろ逆になりかねない懸念を感じる。各社イジメ教材は:
(○:ポジティブ、▼:ネガティブ、・:ニュートラル評価)

・光村図書1・p. 64「いじめが生まれるとき」
▼日本文教1・p. 35「いじめって何?」
▼日本文教1・30「自分だけ「余り」になってしまう…」
▼東京書籍1・6「傍観者でいいのか」
▼教育出版1・18「あなたならどうしますか」
▼学研教育みらい1・4「うわさで決めるの?」
▼廣済堂あかつき1・9「ヨシト」
▼学校図書1・35「卒業文集最後の二行」
▼日本教科書1・p. 56「ちゅうたがくれたもの」
▼日本教科書1・p. 104「プロレスごっこ」

日本文教の2つを除き、これらはワンパターンである。実際にありがちな例が紹介されて、さあ考えましょう、話し合いましょうと誘導される。しかし、あるべき対応がスッキリ示されることはない。本質的な分析が提供されることもない。もし授業を休んだ子が教科書を読むだけなら、「よくあることだよな、仕方ないよな」という印象を残すだけではないか?

最もマズい例は、廣済堂あかつき1・9だと思う。イジメ被害者について「周りに合わすことや、その場の雰囲気を察して振る舞うことが苦手だった。・・・何事にもマイペースなヨシトは・・・」などとかなり詳しく書いている。あたかも、集団に親和しない個性的な子供はイジメに遭いやすい、と教科書で認めている。よほどうまく指導しないと、生徒には「集団親和的でないとイジメられる」という教訓だけが刷り込まれる。ならば、教科書がイジメを助長し、個性を萎縮させているも同然ではないか。他社の教材でも、イジメ被害者の個性や振る舞いを多少なりとも記述しており、イジメに遭う子のありそうなパターンを形成している。

最も醜悪な例は、学校図書1・35である。年配者の懺悔回想文という形ながら、貧しい身なりというだけで、小六同級生に対し悪質で卑劣なイジメ行為を執拗に続けたことを書き綴っている。読むだけで怒りに震える。不条理感だけが残る。ナイーブな子なら、読んだだけでPTSDになるかも知れない。子供の貧困が深刻化する現代日本で、これは過去の思い出話ではない。貧困を負い目にしている生徒は、これを読んだのを切っ掛けに不登校になってしまう危惧さえある。

なぜ道徳教科書だけが、特にイジメ教材が、ひどいマイナスイメージを生徒に与えたがるのだろうか? 教科書というものはふつう、論理的に正しいこと、科学的な事実、歴史的な事実などを書くもので、間違いの例を出すにしても直後に解決を提示するものだ。マイナスなことばかりなら、むしろあまり書かない方がマシである。

光村図書1・p. 64だけをニュートラル評価としているのは、簡単なイラスト一枚だけで、被害者は全く描かれていないからである。

日本文教は多くのページ数を割いてイジメに力を入れている。日本文教1・p. 35は、イジメはクラス全員が当事者(それは間違いない)とする詳細な、しかし表層的な分析を示し、まるでこう言わんばかりである:

– 君たちはイジメをやりかねない(ダメな)集団なんだよ
– 書かれている心理は、思い当たることばかりだろう
– どうすればなくせるかしっかり話し合いなさい・・・

しかし解決の指針は示されない。まるで犯人扱いされるのを、生徒はどう感じるだろうか?
「汝ら、己の罪を悔い改めよ」と言うばかりで、救済は示されないのだ。

日本文教1・30は、余り(一人)になることを恐れる心情に共感しつつ、徐々に克服するように優しく語る。一人になることを恐れる理由が、集団の外れ者はイジメられるとの強迫観念とすれば、それをより増長しかねない。「みんなで「余りの一人」を分かち合うように」と書いても、対症療法というより、むしろ逆方向の対処に感じられる。

イジメを起こす本質は“狭い水槽”

イジメの本質に触れた教材は3つ、2種しか見つけられなかった:

○光村図書1・10、日本文教1・5「魚の涙」
○東京書籍1・付録4「いじめっ子の気持ち」

「魚の涙」は、メジナを狭い水槽に入れると、必ずどれか1匹を仲間外れにして攻撃してしまう、広い海では起こらないのに、という話。 東京書籍1・付録4は、「みんなと違うというだけでイジメる」と指摘し、「違いをありのままの事実として受け入れよ」と諭している。

この2つの話は、「空間的な距離」を「個性・振る舞いや価値観など内心の自由の許容度」に対応させれば、ぴったり符合する。イジメを起こす本質は「集団親和や均質化圧力の下で、外れ者を作る」ことと言える。

一般教科での評価や運動能力の個人差、授業中のクラス統制の必要性などから、学校教育そのものに成績による優劣序列化、均質化や集団親和の側面があるのは不可避であり、イジメの原因が内在していると言える。つまり水槽を狭くしがちである。文科省22の徳目などで、余計な価値観を押しつけたり、内心の自由に干渉すれば、水槽はさらに狭くなるばかりである。

大本に立ち返って考えると、学校教育は国政の一つであり日本国憲法に則ったものでなければならない。その観点から「個人の尊重」がキーワードとなる。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法の中でも、第13条が最も重要で象徴的なものとされる。つまり憲法で規定される日本国の目的は、「個人の尊重」を実現することと言っても過言ではない。しかし社会も学校も、尊重されるべき多数の個人(先生も含む)の集まりであり、一般には互いの自由や権利が衝突する。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第12条後段は、倫理的、道徳的指針を示すものとされる。「公共の福祉」とは難しい言い方だが、「個人の集合としての公共を全体として良くすること」ぐらいに筆者は解している。「自分を尊重してもらいたいなら、他も尊重せよ」との単純な平等原則かも知れない。従って、他を犠牲にして自分だけを利することは、よほど特別な場合(救急搬送など)を除いて、認められないだろう。
「個人の尊重」は無制限に大きな水槽を意味せず、「公共の福祉」という壁で囲まれている。

学校の授業で妨害的な振る舞いをする生徒に対して、「オレらの学ぶ権利を邪魔するなよ、先生を個人としても尊重しろよ」と他の生徒がたしなめてくれたなら、花丸5つぐらいを差し上げたいものだ。法律やルールも(正しく作られているなら)その目指すところは、国民の基本的人権を護り、「個人の尊重」を実現することにあるのだから。

「一人一人がかけがえのない存在」

「個人の尊重」の本質を、平易に表現したものとして、よく使われるのは:
「みんな違ってみんな良い」、
「一人一人がかけがえのない存在」。

イジメ防止には「一人一人がかけがえのない存在」であることを、生徒に徹底して認識してもらうのが最も有効ではなかろうか。徳目#19「生命の尊さ」につき、だれしもが「かけがえのない存在」として生まれたとする教材が多い。誕生の時だけでなく、中学生になり大人になっても、「かけがえのない存在」であることに変わりはない。

例えば、道徳の時間毎に生徒同士の組み合わせを変えて、「君はこの地球上でたった一人のかけがえのない存在」と互いに言い合うのはどうだろうか。それは全くの事実だし、友達になれとか仲良くしろとか要求する訳ではないので、差し障りはないと思う。先生も道徳の時間だけは、接頭辞を付けて「かけがえのない□○さん」と生徒を呼ぶのも良いかも知れない。

不思議なもので、「かけがえのない存在」と思うだけで、混み合う雑踏でも他人に対して邪魔とか嫌だとか負の感情を感じなくなる。子供なら、どの子もとても可愛く見える。

日本国憲法の精神である「一人一人がかけがえのない存在」という認識は、人間関係や社会の出発点であり目的地だと思う。

 


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