【中1道徳教科書への横断的コメント】
こと身障者に関しては良い教材が多い。特に良いと思うのは:
(○:ポジティブ、▼:ネガティブ、・:ニュートラル評価; 矢印は注記)
○光村図書1・7「私の話を聞いてね」 ←右手指の奇形を臆することなくインスタに披露
○教育出版1・17「ショートパンツ初体験 in 米国」 ←米国では義足を隠さない
○学校図書1・1「誰も知らない」 ←通学バス停までの200mを40分掛けて毎日通う子
○廣済堂あかつき1・25「ある日のバッターボックス」
上3つは「障害もありのままに認める」例である。最後のは、子供達がソフトボールのルールを創造し(指名代打+代走)、足の悪い子も一緒に生き生きと遊ぶのを描いている。他の教材でも障害者はいずれも(障害がそれぞれ異なるせいか)個性的に描かれ、障害を乗り越えて素晴らしい活躍をする例も多い。「個人の尊重」が教材の上では実現されている。
個性を一般的に扱ったものとして:
○日本文教1・7「トマトとメロン」
○東京書籍1・4「自分の性格が大嫌い!」
・日本教科書1・p. 84「短所は長所!!」 ←表1ページ
日本文教のは、イジメの教材としているので、トマトとメロンは個性のたとえであろう。外見ほどに内心の違いもあるのだと、生徒に分かってもらえれば良いのだが。 下2つはほぼ同じ主旨で、「短所長所は同じ部分の裏表」。
健常者は一転して個性が乏しくなる
教材で個性的に描かれている健常者は少なく、あるとしてもイジメ被害者ぐらいだろうか。個性的な生徒がいろいろ登場し、その個性ゆえに前向きの面白い話を展開するような教材はほとんどない。ドラマでも、出演者が個性的であればあるほど面白いのだが。唯一それらしいのは:
・光村図書1・31「親友」 ←マフラーを編んだりする僕と、自分を僕と呼び男子ともサッカーをする美咲(女子)との交流。
一部の日本人には、見掛けで分かる外国人(西洋系、アフリカ系など)に対しては考えや振る舞いが違うことに寛容なのに、見掛けが近い外国人(東アジア系など)にはわずかな違いにもキツく当たる、といった傾向が見られる。身障者と健常者で個性の許容度が大きく異なるのは、類似の現象だろうか?
健常者はともすれば無個性で、同じように振る舞うことが、暗黙のうちに求められているようだ。挨拶にしても、認知している人への挨拶は良いとしても、言葉まで指定するのはやり過ぎだ。もっとマズいのは以下3例で、生徒が「知らない大人」に挨拶するのを褒めている:
▼東京書籍1・2「あいさつを交わして」
▼学研教育みらい1・3「挨拶しますか、しませんか」
▼日本教科書1・p. 44「おはよう」
挨拶を機械的に、誰に対してもやらせるのは、本質を無視した形骸の押しつけであり、誘拐や性犯罪を誘発する懸念があり、間違っても推奨すべきではない。駅頭のビラ配りだって、個々の人を見分けて声を掛けるし、言葉も使い分ける。
没個性の最たるものは全校一斉同一行動の行事で、以下3教材である:
▼日本文教1・16「むかで競走」 ←リーダーシップ教材として
▼教育出版1・16「けやき中を誇りに」 ←合唱コンクール
▼学校図書1・18「合唱コンクール」
面白いのはいずれも「伝統行事」という設定であること。伝統という言葉は「思考停止、やるしかない」の方便として便利である。教材の内容はともかく、全員が同じことを一斉にやることの意義は何なのかと思わざるを得ない。保護者にとって、むかで競走は良い娯楽になるだろう。校長先生は、生徒が整然と行動すれば支配欲をちょっぴり満たせるかも知れない(体育や音楽の先生はたいへんだが)。しかし生徒にとっての意義は何か?
生徒は、将来いつか総統閣下や将軍様にマスゲームを披露するために教育されるのではないし、彼らの兵士になるために教育されるのでもない。日本国憲法に則って、「個人が尊重」される社会の(たんなる構成員ではなく)「主権者」になるための教育を受ける権利がある。彼らの中から、将来のリーダーも生まれる。
個性が新しい価値を生む
実社会で、横一列に並んで田植えのようなことは、もうほとんどない。もしそういう仕事があれば、直ぐに機械化、IT化される。会社での仕事はチームを組んでやることが多く、分担して各自が責任を持つ。各自が全体を認識した上で、自分の担当範囲をしっかり把握し、他メンバーと調整したり合わせ込んだり、あるいは問題を克服するために創意工夫が求められる。
「個人の尊重」が身に付き(チームワークのためなど)、自主・自律的に行動し、言うべき時に意見を言えることが望まれる。特に、個性的でユニークな面白い発想をする人は、問題解決や商品/技術開発で莫大な価値を生む可能性があり、重要視されるだろう。
「A 自分自身」の分野で、個性的な人物を扱った教材は少なく、以下ぐらいか:
○東京書籍1・19「どうせ無理という言葉に負けない」 ←植松努氏
・教育出版1・10「イチロー」
・学研教育みらい1・28「イチローの軌跡」
・日本文教1・1「サッカーの漫画を描きたい」 ←漫画家・高橋陽一氏
植松努氏の話として「国家主導の世界初はこの世にないんです。世界初はすべて、個人が自腹でやってきました。・・・全ての人は世界を変える可能性があるのです。」と力強く言わせている。事実だと思う。科学技術を推進するなら、こういう心意気を持つことがとても大事だと思う。
世界を変えた個人の顕著な例は、最近ではスティーブ・ジョブスである。ノーベル賞受賞者や著名な発明家も、世の中や社内でなかなか認知されない自分のアイデアや仕事を、粘り強く強い意志を持ってやり通した、とても個性的な人が多い。集団親和と独創性は相容れない面がある。
人からどう思われようと、自分が決めてその通りに実行するイチローは、自主・自律の鑑のような人物である。集団親和や付和雷同に流れる日本では珍しいタイプで、お手本として大いに推奨されるべきだ。しかしながら上の2教材では、イチローがイチローたる最重要ポイントをしっかり書かずに、結果としての自己肯定感や規則正しさだけを強調しており、教材の意義は半減している。
繰り返すと、学校教育でも個性を、特にユニークな発想を大事にしてほしいと思う。新しい価値はそういう人達によって生み出されるのだから。
「ユニークコンテスト」
余談ながら、こんな学校行事があれば面白そうだと夢想する。称して「ユニークコンテスト」:
- 一組5分以内で、プレゼン、演技、歌など何でもあり(公序良俗に反しない限り)
- ユニークさ、面白さを競う
- 出演者は自発的志願者
- 出場しない生徒には、進行、音響、記録などの役割を志願で分担してもらう
- 残りの生徒は、観客 & 採点係として、出演者の良いところを見つけて褒めまくる義務と公平で透明性のある採点を行う義務を課す
- クラス予選と、全校コンテストの2段階
それこそ伝統があり、やり方のノウハウが積み上がっていないと難しいとは思うが・・・。