日本の伝統とは <==> 大日本帝国は異端・反伝統的

  • 共存共生社会       <==> 軍国主義、兵営国家
  • 天皇は実権を持たず象徴的 <==> 天皇は現人神、神聖にして侵すべからず
  • 自然への畏敬(八百万の神)<==> 国家神道・天皇一神教
  • 地方分権と価値観の多様性 <==> 徹底的な中央集権
  • 外来技術・文化を尊重   <==> 中韓を蔑む、八紘一宇、鬼畜米英
  • 平安中期まで女系社会   <==> 男尊女卑

日本の伝統と聞けば、戦前戦中の大日本帝国を連想するかも知れないが、それは全くの間違いで、むしろ真逆であることを論じるのが本稿の目的である。別稿および前稿でも述べたように、大日本帝国は、日本の歴史上では異端であり、反伝統的、例外的な時代である。意図的に日本の伝統の多くをかなぐり捨てて、徹底的に西洋列強を真似することで、彼らに追いつき対抗しようとした。その結果は言うまでもなく、一億総玉砕の崖っぷちまで自らを追い詰めた大失敗である。日本国憲法を掲げる現在の日本国のほうが、はるかに伝統的な日本に近いと言える。

共存共生社会 <==>  軍国主義、兵営国家

上記のような日本の伝統がなぜ育まれたかは、日本の地理的気候的特殊性(島国、安定して多い降雨量、複雑で山がちな地形、多様な自然の恵み、自然災害の多さ・・・)でかなり説明可能と思われる。特に共存共生社会については、前稿ですでに長々と述べた。

共存共生に対する言葉は、弱肉強食である。弱肉強食の歴史的背景をもつ西洋列強と対抗するため、大日本帝国は彼らをモデルに富国強兵を進め、瞬く間に弱肉強食を具現する帝国主義国家となり、軍事力を背景に植民地獲得競争に邁進してしまった。(ただし西洋列強の植民地支配に比べれば、「共存共生」的な伝統が台湾などには適用されて、はるかにマシだったと見る。)

日本が侵略する側になったのは、「文禄・慶長の役」(1592〜98)に次いで、これが歴史上 2回目であろうか【注1】。豊臣家はわずか23年後(1615)に滅亡し、大日本帝国は朝鮮併合から35年後、満州事変からはわずか14年後に壊滅する。これが歴史の教訓である。

【注1】白村江の戦い(663)は、侵略とは言い難い。滅亡した百済の残党の要請で、太子(当時、日本に滞在)を擁立し百済再興を図ったが、唐/新羅に惨敗。直後から、防人制度を実施した。

天皇は実権を持たず象徴的 <==> 天皇は現人神、神聖にして侵すべからず

明仁天皇ご自身も結婚満50年の記者会見で、「日本国憲法下の天皇の在り方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」と発言されている。鎌倉、室町、江戸時代の長きに亘って、天皇は実権を持たなかったが、文化的な権威は尊重されていた。

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南朝・吉野の桜

天皇が象徴的になってきたのには、それなりの必然性があると考える。実権を持てば、必ず責任が伴う。実権を行使すれば、時にはひどく失敗し、権威が傷つくからである。後醍醐天皇(1318〜39)は、白河天皇(1072〜86)以降では初めて、親政(独裁?)を行い建武新政を実施した。しかし足利尊氏の離反を招き、北朝の光明天皇が擁立され、国を二分する戦乱の南北朝時代(1336〜92)に突入してしまう。天皇親政は、南朝第2代の後村上天皇(1339〜68)を最後に二度と行われていない。

大日本帝国でも「天皇は君臨すれども統治せず」なので、親政とは言えない。具体的な政治決断も、昭和天皇によるポツダム宣言受諾、玉音放送ぐらいしか思い浮かばない。しかし天皇の権威は絶対的なものとされ、教育勅語を教典として、天皇(即ち大日本帝国)のために命を捧げることを至高とする国粋主義教育が行われた。

天皇の権威を最も罪深く悪用したのは軍部である。明治憲法の規定上、陸海軍は天皇直属であるために、内閣や議会の意見に対しては「天皇の統帥権の干犯」として反発・糾弾した。天皇の名の下に軍部は暴走し、日本を破滅に追い込んだ。ほとんどの大都市が焼け野原になり、広島、長崎が一瞬にして壊滅し、仲介を期待したソ連の参戦を知り、漸くやっとのこと、昭和天皇は統帥権を発揮して軍部を止めたのである。

自然への畏敬(八百万の神) <==> 国家神道・天皇一神教

日本は八百万の神の国、多神教の国である。おおよそ人智を超えるようなものは、何らかの崇拝の対象になっている。山、岩、巨木、川、滝、湖沼、民俗神、実在/伝説の人物、稲荷、猿、鯨、性器までもと、非常に多彩多種多様である。それらを祀る神社の場所も、また多様である。日本人は多様な価値観を持ち、多様な自然とそれへの畏敬の念を、神社という形で表現してきた。

TsunamiJinjya東北の太平洋沿岸には津波にまつわる多くの神社があり、その位置は津波の浸水域を見事に反映していることが、東日本大震災で図らずも認識された。神社まで避難すればまず大丈夫という目印になっており、数百年の時を超えて災害の教訓を教えている。これも日本の伝統の一側面である。写真はこの動画の一場面から。

「国家神道」は天照大神を最高神、天皇を現人神とする天皇一神教であり、八百万の神の神道としては、完全な自己矛盾である。大日本帝国の末期は、「天皇一神教」という特異なカルト支配の時代となっており、極めて反伝統的、例外的である。

伊勢神宮は天皇家の神社として、明治期から特別扱いされているが、実はその実態はなかった。天武天皇の命により建て替えられ、以来、式年遷宮は続いていたが【注2】、歴代天皇は全く参拝しておらず、最初に参拝したのは明治天皇という意外な事実がある。江戸時代に全国的に有名であった伊勢神宮の人気を利用して、明治政府が政治的に神話を創作したのである。

どの文明も初期は多神教であったと思われるが、弱肉強食の厳しい戦乱を経るにつれて、一神教が次第に流布するのは歴史的必然のようである。人々が厳しく対立する状況において、絶対的な神の名の下に共通の道徳観・倫理観を持つことが、社会の安定には有効な手法なのであろう。日本でも戦国時代に、一向宗(仏教としては一神教的傾向あり、現在の浄土真宗)やキリスト教が急速に広まったのは偶然ではあるまい。

支配者にとっても、一神教は自(味方)を固め、他(敵)を峻別する効率的な手法である。自(味方)をまとめ結束させるためには、神は唯一絶対でなければならない。それが「国家神道」であり、「天皇一神教」である。教育勅語教育により、天皇(=大日本帝国)のために命を捧げよ、強い兵隊になれと叩き込んだのである。大日本帝国、特にその末期は、日本国民のほとんどが洗脳状態になってしまい、これはカルト支配と言う外はない。日本史上の異端・異常期である。

【注2】式年遷宮は戦国時代に長らく中断した。その復活に尋常ならぬ活躍をしたのが、直ぐ近くにあった尼寺・慶光院である。全国を10年間も行脚して寄付を募り、129年ぶりに式年遷宮を復活させ、その後も時の支配者(信長、秀吉、江戸幕府)から寄進を得て継続させた。しかし明治政府は、廃仏毀釈により、周辺60余の寺院もろとも慶光院を廃寺。恩を仇で返したのである。

地方分権と価値観の多様性 <==> 徹底的な中央集権

複雑で山がちな地形で南北に長い日本は、情報伝達や物資輸送を考えただけでも、地方分権的な支配体制のほうが素直で無理がない。鎌倉、室町、戦国時代は、地方分権的であった。幕府が弱体で、統制が十分届かないという消極的な側面もある。

徳川幕府が厳しく統制・監視していた江戸時代でも、徴税や軍備は各藩内で行っていたので、明確に地方分権と言える。幕府は藩政の細部までは干渉しなかった。地方分権は、即ち価値観の多様性につながる。各藩は固有の特産品や工芸品の振興を奨励し、それぞれ藩政改革を図った。日本の伝統工芸品の多くは、江戸時代に形成されたものではなかろうか。

日本が特に中央集権を強めたのは、大宝律令(701)が作られた律令政治の時代と、大日本帝国期である。この2つ時期には明確な共通点がある。日本の存亡危機事態との認識である。前者では、白村江の戦いに惨敗し(唐に比べて)弱小国であることを痛感し、唐/新羅からの侵略を畏れ、国防を初めて強く意識した。後者では言うまでもなく、阿片戦争や黒船来航などで西洋列強による植民地化を畏れた。中央からの指令が全国隅々まで届く直轄支配で、国民が同じ方向に向き、強力な軍隊を持つことを目指した。

大日本帝国時代には、憲法上に地方自治の規定はなく、権限も人事面も国の監督権が強かった。県知事は勅任官で、内務大臣の指揮監督下にあり、言わばお代官である。全国が天領になったようなものである。市制町村制など、地方自治らしき仕組みが法律で次第に定められたが、立法理由書に「政府ノ事務ヲ地方ニ分任シ、又人民ヲシテ 之ニ参与セシメ以テ政府ノ繁雑ヲ省キ併セテ人民ノ本務ヲ尽サシメントス」と記載の通り、「国は忙しいから、日常些事はお前らに任す」という主旨が伺える。しかし重要なことは全て、内務省の承認が必要であった。

国の指示や承認待ちばかりでは、地方は独自のアイデアを活かせないし、価値観も単一になり、独創性も出てこない。例えば、明治や大正時代に新たな工芸品が創案されただろうか? 旧ソ連や鄧小平以前の中国のように、強すぎる中央集権は国内の活力を失わせる。単純に考えて、地方分権のほうが、物事や問題を主体的に考える人間の数は圧倒的に多い。深い考察、新しい発想、独創性が出てくる可能性が高い。大日本帝国の限界は、この点にもあったのではなかろうか。

日本の伝統から外れた中央集権の弊害は、戦後の日本にも依然として強く残っている。日本国憲法では、第8章で地方自治を規定し、地方議会の設置や選挙を定めているが、法律で定めるべき権限の委譲が不十分に思われる。先進国を追いかけるのは得意でも、バブル期以降の経済低迷は、日本の中央集権政治の限界を示しているのではないか。

外来技術・文化を尊重 <==> 中韓を蔑む、八紘一宇、鬼畜米英

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陶祖・李参平の碑

日本は伝統的に、大陸に巨大な文明・軍事先進国があることを常に意識しており、積極的に外来技術や文化を学び、取り入れてきた。朝鮮出兵の時でさえ、諸武将は競って陶工を連れ帰り(拉致?)、好待遇を与えてそれぞれの領地で磁器産業の振興を図った。種子島に伝わった火縄銃に驚愕した戦国武将の中には、進んでキリスト教に改宗し、宣教師の母国と通商を図る者も居た。

大日本帝国期前半もこの伝統は続く、ただし見習う手本をはっきりと西洋列強に絞って。たいへん多くのエリート達が西洋列強諸国に留学し、当時の先端学術を学ぶと共に、諸外国での実生活を経験し広い視野を持つ。彼らは帰国してそれぞれの分野で指導的地位に就き、お手本である西洋列強に日本は急速に追いついていった。

第一次世界大戦で漁夫の利を得て、国際連盟の常任理事国となり列強の一翼になる頃には、大日本帝国は元来の謙虚さをすっかり失い、傲慢になってしまう。かっては文明の上流であった中韓をいまや蔑み、侵略の対象としてしまう。

満州国の建国で世界中から非難されていた頃、新興宗教「生長の家」の教組・谷口雅春は、

日本人は優良民族である」、
日本の国土が全世界に拡り、天皇陛下が世界を統治し給うべき御位を持つ」。

といった全く根拠のない説を唱えて、侵略を正当化した。「キリストの教えを世界に!」、「マホメットの教えを世界に!」といった侵略の思想と何ら変わりはない。生長の家の教えは、軍人家族を始め広くに国民に受け入れられ、信者を増やしていた。

教育勅語(1890)の発布からすでに45年ほど経過し、「皇国日本は特別な国である」との国粋主義教育が国民に広く浸透し、軍部だけでなく、国民全体が傲慢さの自己暗示に掛かり、それをメディアが煽っていた時代である。こうなるともう止められない。無謀な戦争にひたすら突き進んだ。

平安中期まで女系社会 <==> 男尊女卑

源氏物語(1008、文献初出)からも分かるように、日本では平安中期まで女系社会が続き、世界の文明の中で最も遅くまで残っていた。一般に、戦闘が優先するようになると男系社会に変わってゆくので、世界の文明の中で日本が最も戦闘が少なかったことの証左にもなるのではないか。

天照大神は、皇室の祖神で日本人の総氏神ともされるが、そもそも女神にして太陽神である。世界の主要文明の中で、祖神が女神にして太陽神というのはたいへんに珍しい。戦闘よりも、命を育むことや豊穣をより重視する価値感であったと推察される。天照大神が記述された古事記(712)や日本書紀(720)の編纂当時も、そうであったことだろう。

つまり日本は「女尊男尊」の国であったが、武士の台頭と戦国時代を経て江戸時代にもなると、男尊女卑になってしまったような印象がある。しかし実際はそうでもなかったようで、妻が家計を握っていた例とか、離婚の多くは男女双方の合意により初めて成立する「熟談離婚」であったという。建前はともかく、実質的にはまだ女性の地位は低くなかった。

男尊女卑が決定的になったのは、1898年の明治民法により男女格差が法律として制定されたからである。そもそも明治憲法で定義される「臣民」とは、兵役(男のみ)、納税、教育(戸主)の三義務を負える男だけを意味するのではないかとの説さえある。富国強兵・国民皆兵が絶対視された時代であり、兵役を果たせないものは半人前としたのではないか。

男尊女卑の大日本帝国では、天照大神が女神であることと、皇室の祖神で日本人の総氏神であることをどうやって矛盾なく説明したのだろうか? この質問にずばり答える文献がある。明治政府もかなり対処に悩んだようだ。分かりやすい対処の一つは、教科書では「天照大神を表象禁止」にしたことだ。イスラム教の偶像崇拝禁止に似ている。

最後に

大日本帝国破滅の主要因は以下3点だと考える:

  1. 天皇の絶対神格化
  2. 教育勅語による国粋教育
  3. 陸海軍は天皇の直属(明治憲法の問題)

教育勅語教育が始まって40年経過した1930年代には、日本人は「忠君愛国、滅私奉公、忠孝一致、一億一心、神州不滅」ですっかり洗脳されていたに違いない。精神論でどんな無理・無謀でも通してしまうのである。国全体がカルト化していたのである。さもなくば、国際連盟からの脱退などの愚行は、とうてい理解できない。

大日本帝国自体が作った仕組みが、国民に浸透すればするほど、国全体をおかしな方向に追い込み、墓穴を深く深く掘り込んだのである。


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