世界の中で、日本は一国だけで独自の文明として分類されているようである。世界史は支配と被支配の戦闘に綴られ弱肉強食の淘汰が当たり前であるのに対し、日本の独自性は共存共生社会であり、それは特有の地理的・気候的な特徴(島国、安定して多い降雨量、複雑で山がちな地形など)から培われたことを本稿では論じたい。
古代人のDNA解析、際立つ対照
古代人のDNA解析の結果は、ヨーロッパと日本では際立った対照を示す。現代のヨーロッパ人はとても多様に見えるが、その起源はわずか6500年前ほどと意外に歴史が浅いという。約6500年前、新しい農耕技術とともにヨーロッパに流入した人々の後裔が、現代のヨーロッパ人である。それ以前に住んでいたはずの人々のDNAはほとんど残っていないのである。戦いで殺戮されたのか、農業技術つまり生存能力の差で絶滅したのかは分からないが、どちらにせよ「混血していない」のである。淘汰されて、消えたのである。
一方、日本には数万年前に日本列島に辿り着いたとおぼしき人々のDNA系統がしっかり残っている。篠田謙一「日本人になった祖先たち」や崎谷満「DNAでたどる日本人10万年の旅」によると、日本人のDNAは単一の起源ではなく、数万年にも亘る様々な時期に、様々なルート(対馬海峡、間宮海峡、琉球列島)で日本に辿り着き、平和的に混血しあった人々の集合体である。大和民族なるものは架空であり、存在しない。日本人は意外にもDNAの多様性が広い人々の集合で、その多様さは世界的にも珍しいとされる。アジア各地の人々や南北アメリカ先住民の人々の容貌を見て、日本人にも似た人が居ると思うのは当然なことで、同じDNA系統を持つ日本人が居るからである。
縄文時代は共存共生社会
その地の伝統や文化の形成に関わる最も大きな要因は、気候風土や地形である。日本列島は4つのプレート(ユーラシア、北米、太平洋、フィリピン)が互いに押し合うことで形成され、火山活動や河川の浸食も相俟って、非常に複雑な地形である。亜熱帯性の沖縄から亜寒帯性の北海道まで南北に長く、多様な自然に恵まれる。全般に降水量が安定して多く、森林がたいへん発達し、中小河川が多く、陸からのミネラル供給により水産物も豊富である。大陸から日本列島に渡ることは可能ではあるが、(古代に)大人数で渡るのは難しいという微妙な距離にある。
縄文時代を念頭に考えれば、水を得やすい河川の近くで、洪水を避けられる場所を居住地としてまずは選んだであろう。海産物も採れる河口付近の台地は、最も住みやすかったかも知れない。居住に好適な場所は日本列島内には非常に多く、その地ごとの恵みもある。日本の大抵の場所で、水と燃料(樹木)を得やすいことが鍵である。
縄文時代は狩猟採集と簡素な農耕なので、十分な食料を確保するには広い生活圏を必要とした。数十人程度の集落が互いに離れて存在していたと思われる。縄文時代の日本の人口は、縄文海進により温暖であった最盛期でもわずか26万人ほどとの推定があるが、それでも当時の関東の人口密度は世界一だったと言われている。(なお、西日本は人口が少なかった。7300年前の鬼界カルデラ噴火により、火山灰で広く覆われてしまった影響のため。)
離ればなれの小集落とはいえ、孤立してはおらず、様々な交流があったことが実証されている。交流が意外にも広範囲に亘ることの好例として、黒曜石(石器の材料として特に有用)や翡翠(装身具として重用)が、限られた特定の産地から広く日本列島各地に流通していたことが知られている。
モノではなく、人の交流を推定する上で、茨城県取手市の中妻遺跡から出土した縄文人の骨のDNA解析はたいへん興味深い(前出の篠田謙一「日本人になった祖先たち」PP.164-165)。成人 26体(女 6、男 20)のうち、女の 5/6体はこの集落の主流と思われるDNAを持つのに対し、男は 10/20体と比率は低い。男の 4/20体は第二主流と思われるDNAで、残り6/20体はバラバラであった。この結果から、集落は母系社会であり、DNAの異なる他の集落から男が婿入りしてきたと考えられる。
小集団で近親結婚を繰り返せば、その弊害で数世代で衰亡してしまうことを、太古の昔から人類は経験で知っていたのであろう。他集団から男を意識的に迎え入れたのである。母系社会であることも、子育てをして集団の命をつなぐことが何よりも優先する状況では、ごく自然なことである。
このように日本の縄文時代は小規模集落が「平和的に交流する共存共生社会」で、大きな殺し合いはなかったと考えられている。あるいは「互いに遠い親戚のようなもの」というある種の「仲間意識」が形成されていたかも知れない。水稲栽培技術をもたらした弥生人とも、殺戮も淘汰もなく、やはり平和的に混血したと、上記の篠田、崎谷はDNA解析から結論づけている。
「水稲」と記したのは、縄文時代からすでに「陸稲」は栽培されていたことが、最近の定説になっている。陸稲栽培の下地があってこそ、収量が大幅に増える水稲栽培が急速に拡がったのであろう。そもそも、渡来した少数の人達だけで見ず知らずの土地でいきなり稲作を始められるはずもなく、まずは縄文人の集落に受け入れられて命をつながなければ、ことは始まらない。
階層化や戦乱でも、基調は変わらず
大陸からの人の流入は間断なく続く。水稲栽培や鉄器などの技術が入り、人口が増えて社会の分化/階層化が進み、文字などの文化、租庸調など支配の仕組みも導入されていった。その社会変化は漸進的で自律的であり、少なくとも外から強制されたものではなかった。縄文時代に培われた「平和的に交流する共存共生社会」の基調は、社会の階層化でも大きくは揺るがなかったと言えるのではなかろうか。島国であるため、異質あるいは敵意を持つ人々が大挙して押し掛けるような事件も、元寇まではなかったことも幸いであった。
しかしながら日本でも一般民衆が争いに動員される時代はあった。水稲栽培で人口が増えるに連れ、隣り合う集落間などで、争い(小規模の戦争)が始まったとされる。周囲に濠をめぐらし防御を固めた環濠集落が日本各地に作られるようになった(吉野ヶ里遺跡が有名)。ただし、大規模な殺戮を示す証拠は見つかってはいない。
集落間の争いは、やがて地方国レベルの争いになり、支配構造が確立する古墳時代になると、環濠集落は廃れてゆく。以降、日本の戦乱は基本的には支配層間の争いである。武士階層の登場により、一般民衆が争いに駆り出されることは次第に減り、もちろん殺戮の対象でもない(数少ない例外は、一向一揆と島原の乱であろうか)。戦国時代には再び、一般民衆が武装したり戦闘に巻き込まれることが多くなるが、秀吉による全国統一と刀狩りにより、武士と一般民衆ははっきり分離する。
弱肉強食の世界
要するに「日本は侵略を受けなかった、一般民衆を殺し合うような大戦争はなかった」と述べているに過ぎないのだが、これは日本の顕著な特徴で、ユーラシア/アフリカ大陸で発達した諸文明に比べて、全く例外的である。
ユーラシア/アフリカ大陸では乾燥地帯や大平原が多く、大人数での移動が容易である。農耕に適したいわゆる豊かな土地は限定的にしか存在しない。オアシス、大河川の流域、山脈の麓などで、水を安定して得られる場所である。そういう貴重な土地を巡っては、必然的に奪い合いや、戦争が起こる。単にその土地の支配権を争うばかりでなく、住民を皆殺しにしてそっくり入れ替わるようなことも珍しくなかった。
負ければ、死か奴隷である。ローマ帝国は、征服地から徴用した奴隷の使役で繁栄していた。日本は、元寇で初めての皆殺しの戦いを体験した。対馬、隠岐では男は皆殺し、女子供は捕虜となり奴隷となった。文字通り弱肉強食である。世界史的にはこれが普通である。
ユーラシア大陸全般で、居住域全てを堅固な壁ですっぽり囲い込んだ城郭都市がみられる。日本には環濠集落はあるが、城壁に囲まれた都市はない。近世には堅固なお城や砦は作られるが、もっぱら武士のための施設であり、一般民衆を住まわせるようなことはない。
日本の伝統を捨てた大日本帝国
弱肉強食の厳しい生存競争で培われてきた世界の諸文明は、特に戦闘においては、日本より先進的であり強力であった。島国、人口の多さ(兵力)、国としてのまとまりによって独立を保ってきた日本も、西洋列強による植民地化の畏れに晒される。日本らしさを捨て、富国強兵により徹底的に西洋列強の真似をすることで、彼らと対等になろうとした。明治維新である。
大日本帝国は、日本の伝統の多くをかなぐり捨てている。日本の歴史上では、異端であり、反伝統的、例外的な時代である。この観点はすでに指摘しているし、さらに別稿でもまとめた。
自国が植民地になる畏れは直ぐに解消したと言う時点では、大日本帝国は成功したと言える。しかしそこで満足することはなく、西洋列強と競合する帝国主義国家として、軍事力を背景に他の民族や国家を貪欲に侵略することになる。植民地獲得競争に最後に参入した大日本帝国は、最後までその姿勢を改めることはなく、日本史上最悪の破綻にまで突き進んでしまう。
世界は弱肉強食から共存共生へ
第一次世界大戦の終結は、帝国主義時代の終焉の始まりでもあった。兵器の破壊力や非人道性が増した結果、戦争による犠牲が余りに大きくなり、「もはや戦争で利益を得ることはできない」という認識が、戦場となったヨーロッパ諸国を中心に広まった。死者数1660万名と推計されている(うち、日本は415名)。激戦地跡には、毒ガスなどの汚染のため未だに立入禁止区域が拡がる。
この認識は1928年のパリ不戦条約として結実する。その第一条(戦争の放棄)は、後に日本国憲法第9条第1項につながるものである:
第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。
しかしながら不戦条約は、締結時から「自衛のための戦争に適用されない」との但し書きによって、無効化されてしまう。大日本帝国は、満州事変でさえ自衛のためとうそぶき、日中戦争をも「事変」と称する詭弁を弄し、締結国であるのに不戦条約を蔑ろにして、世界中から非難を浴びた。国際連盟の常任理事国という地位さえも捨てたのは、無謀・狂気としか言いようがない。引き返せない道に入り込んだのである。
弱肉強食から共存共生の方向へ世界が転換し始めたその時期に、共存共生の国であるはずの日本が、大日本帝国として世界の大きな潮流に逆らい弱肉強食(侵略)を推進したのは、歴史の皮肉である。独伊と共に、第二次世界大戦を引き起こし、愚かな殺戮を再び繰り返した。死者数6000〜8500万名と推計されている(うち、日本は310万名)。国土は焦土と化し、貴重な文化遺産を失い、一億総玉砕の寸前まで自らを追い詰めた、世界史上でも類を見ない大失敗である。
第二次世界大戦の反省は、国際連合憲章で明文化された。弱肉強食から共存共生への移行を宣言した。日本は日本国憲法によって、共存共生の本来の姿に戻ったと言える。日本の伝統から外れた大日本帝国の失敗を、歴史の教訓として常に記憶に留め置かねばならない。