「重荷五十年」15.若鷲の歌 ‐ 海軍飛行予科練習生 ‐

Sさんは終戦当時18才、霞ヶ浦飛行場にて、日本初のロケット迎撃戦闘機「秋水」の搭乗員として訓練を行っていた。

Sさんは予科練に志願し、抜群に優秀な操縦士になっていた。もう少し戦争が長引いていれば、あるいは平凡な操縦士であれば、彼は特攻に出撃させられていたかも知れない。

府中中学校(現府中高校)で全員軍隊へ志願しようという総決起集会が開かれたのは、昭和十七年だったか。

考えてみると、あの時代、生きることを考えた人間の未来像というものは、とうてい描けない時代だった。烏合の衆といわれるかも知れないが、全体主義の教育の中で群衆の力に押され、国のために死ぬという武士道の美学にあこがれて兵隊になった。

どうせみんなが死ぬんだ。それならいっそのこと――といつもの先走りと、七つ釦という服装にあこがれた。あこがれさせられたといった方が正しいかも知れない。

プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」より

図は海軍飛行予科練習生(予科練)の募集ポスターである。表題の『若鷲の歌』は、映画「決戦の大空へ」の主題歌で、1943年9月10日に発売されたという。別名「予科練の歌」とも呼ばれる。この映画はまさに予科練募集宣伝の目的で作られた。Sさんもポスターや映画を見たかも知れない。

西鹿児島駅へ降りたら目の前に桜島がパアッと見えた。鹿児島へ着いたのだ。昭和十八年十月一日入隊した。

予科練というとエリートのイメージがある。太平洋戦争開戦前は年間 1000人以下の入隊だった。しかし戦中に急拡大され、1942年は約4千名、Sさんが入隊した1943年の甲種13期生は約3万名にもなっていた!

従って全国に予科練航空隊が新設され、彼は鹿児島海軍航空隊に入隊し、基礎訓練を受ける。場所は現在の鴨池球場付近で、そのすぐ南側に『ひっきりなしに零戦が飛び立つ』海軍鹿児島基地/鴨池飛行場があった。鴨池飛行場は戦後、鹿児島空港として活用され、空港移転後は再開発されて中層建築が立ち並んでいる。

ここでは海軍軍人としての体力や躾、学力を徹底的にたたきこまれた。・・・モールス信号、手旗信号、気象、航法、陸戦、射撃、エンジン整備、など約半年でたたきこまれ、夜間はそれの自習、休憩は夜空に向って号令の発声練習。

海軍は「一人の失敗で一艦を沈める」ことになるという考えから、全体主義が特に強い。だれが失敗したのかわからないまま、ビンタをやられたり、軍人精神注入棒で尻をたたかれることがたびたびあった。・・・人権無視はあたり前のことで、与えるものの興味本意での罰則もずいぶんあった。

収容能力を越えて集めた志願兵は、奴隷か芋の子のように扱われたようである。そんな中である日、

モールス訓練の教官が機械操作をあやまって突然みんなの耳に美しい音楽が入った。

“山の淋しい湖に ひとり来たのもさみしい心 胸の痛みにたえかねて――”

心のかわきがジューンとなって音楽というものがこれほど人の心をうるおすものであることをはじめて知った。やさしい教官は、その曲が済むまでわざと知らんふりをして機械をそのままにしていた。』 曲は「湖畔の宿」である。

Sさんら258名の訓練生は、8ヶ月の基礎訓練を終えて、1944年7月いよいよ実地飛行訓練のため台湾に向かう。25隻の大輸送船団のなかの貨物船に乗り、門司を出港。すでに、米軍の空から海中からの攻撃を、最大限に警戒せねばならぬ状況であった。

台湾の港が見えだしたある日、パッと軽く頬を叩かれ、耳を圧迫したような気がしてハッとふりむくと海上二~三キロメートル先の陸軍の兵士を満載した僚船が二つにさけ、まっ赤な炎がメラメラと見えた。敵潜水艦の魚雷にやられたのである。小さく見える人間が海にとび込むのが見え、引船らしいものが「イマニタスケル、ゲンキヲダセ」と発光信号を出しながら近よっていたが、船は大きく船首と船尾をあげ、立ちあがったようになったと思うとぶすぶすと海の中へ沈んでいった。

1944年7月25日、Sさん達は「虎尾(こび)海軍航空隊」に入隊した。虎尾は台湾の中西部・雲林県にあり、当時東洋一の製糖会社があり、周囲はさとうきび畑ばかりであったという。予科練習生の大量入隊に伴い、全国で訓練用の飛行場が整備されたものと推測され、虎尾海軍航空隊も5月15日に開隊したばかりであった。跡地は、国民党軍の空軍基地として利用された後に、現在は高鉄(台湾新幹線)の雲林駅や農博公園などがある。

九三式中間練習機「赤とんぼ」。出典:DOYUSHA

練習に使われたのは「九三式中間練習機」で、目立つように全体が橙色で「赤とんぼ」と呼ばれた。鋼管と木製(!)の骨組に、翼は羽布(軽く密に織った麻布)で張られ、全幅 11m、全長 8m、自重 1000kg、最高速 214km/hの仕様であった。安定性・信頼性が非常に高く、扱い易く、かつ高等曲技飛行も可能なほどの操縦性があったという。計 5770機も生産されている。ほとんど映画「華麗なるヒコーキ野郎」の世界である。

離陸は比較的やさしいが、着陸は感覚だけがたよりである。・・・地上五メートルで機首を引きあげ地上一メートルで失速させて、ガタンとおちるように着陸させるのである。・・・(高度五メートルの)感覚はなかなかつかず、失敗すると脚を折ることになる。

毎日毎日この訓練である。そしてだれかが失敗するとその日は注入棒が待っている。その上炎天の中で飛行服をつけたままの駆足、軍人精神注入棒の洗礼、夕食後から夜中に至までの長時間の前支え(腕立て伏せ)。死んだ方が楽だろうなあと思い、勝手にしてくれと開き直る気持ちになるような訓練であった。

急旋回、宙返り、失速反転など次第に高度な飛行ができ出した頃、虎尾空も敵機の襲来を受けた。

はじめて見る敵機グラマンF6Fであった。すごいスピードで急降下し機銃を掃射し、ロケット砲を発射した。・・・

上空八千メートルをB29の百数十機に及ぶ大編隊が通り過ぎていった。日本の高射砲はあそこまでとどかない。悠々たるものである。きっと内地も空襲を受けているのであろう。日本はこの先どうなるのだろうか。そしてわたしももう内地へ帰ることはなかろう。この遠い台湾の地で死ぬのかなあと思ったが、死への恐怖といったものはなかった。

このような戦局のため、1945年2月15日、虎尾海軍航空隊は解隊となり、練習生は第二郡山海軍航空隊へ転属になった。7ヶ月前台湾に渡る時すでに危険だったのだから、帰りは尚更である。高速輸送船・日昌丸に折良く便乗し、中国大陸沿いに黄海を北上して、Sさん達は無事帰国できた。しかし教員達が乗った一便遅れの船は、台湾海峡で敵潜に撃沈されて、全員亡くなったという。

ちなみに日昌丸は、氷川丸(戦時中は病院船、横浜港に停泊展示中)と並んで、2隻だけ残った大型の外洋航行船だという。他は全て、戦争で沈没してしまったのだ!

第二郡山は雪の飛行場、寒さのみ。三枚も毛布をもらい、一つの床に二人で入り二人分の毛布をかけ、お互の体のぬくもりを分け合って眠る。

第二郡山海軍航空隊(金屋飛行場)は1944年3月15日に開隊しており、やはり予科練習生の大量入隊に対応した施設である。その場所は現在、郡山自動車学校もある中小企業団地になっており、約1km四方の広大な土地である。当時の郡山市長が、町興しのために誘致して、農地を潰したのだという。

Sさんの手記は、郡山以降は数行で次々と飛んでいく:

・神町航空隊(今の山形空港)

飛行練習の後段、合同編隊飛行、上昇旋回、宙返り旋回、計器飛行、夜間訓練などを受けた。・・・

・漆山分遣隊

背面飛行が多くなり、重力、無重力の激しさが体を襲う。疲労で目の前が暗くなることがあった。飛行兵でありながら飛行機不足と燃料不足のため、地上で土運び作業をおこなっている分隊もいる中では、飛行機に乗れることをうれしく思いがんばらなくてはならない。・・・

山形に移ったのは、4月12日郡山空襲により中心部に大きな被害が出たためであろうか。金屋飛行場自体の被害はなかったか、わずかと思われるが。

漆山分遣隊(日飛飛行場)は、神町(山形空港)から南に 11kmほどで、JR漆山駅の東側にあった。現在は、山形刑務所と住宅地になっている。

日飛とは、日本飛行機株式会社の略称で、現在も存続して航空部品メーカーになっている。戦時中、日飛は九三式中間練習機(赤とんぼ)を最も大量に生産した。工場は山形市内にあり、日飛飛行場は試験飛行用であった。各地の航空隊が空襲されたため、日飛が訓練用にも飛行場を提供したのではないかと思われる。

当時はもはや航空燃料が希少になっており、飛行訓練を行えた練習生はそれだけでエリートと言える。なにせ同期生は3万人もいたのである。(地上要員が4/5としても)6千人/年もの操縦士を訓練できるだけの、飛行機や燃料があるはずもなかった。

なお、第二郡山海軍航空隊、神町航空隊、漆山分遣隊ともに、1945年8月9日に空襲され、「赤とんぼ」の大半が破壊されている。

1945年6月23日付けで、『八重桜の高等技術者のマークをもらい軍服の腕にぬいつけた』Sさんは、迎撃戦闘機「秋水」の部隊である「第三一二航空隊」へ転属した。場所は、霞ヶ浦海軍航空隊である。

三菱重工名古屋航空システム研究所が復元した「秋水」。出典はここ

秋水はロケット推進で、一枚の三角翼、水兵尾翼はない。離陸は車輪で行い離陸すると車輪を切り落とし一万メートルまで三分半で上昇し、あと三分半でB二九を迎撃する局地戦闘機である。燃料がつきると、滑空で帰投し、そりを出して滑り込み着陸をする。

前々回(その13)で、B29はターボ過給器により1万mもの高空を悠々と飛べるが、日本の戦闘機はその高さまで上がれないという話を紹介した。その高空までロケットエンジンで上がり、数分間だけでも戦闘できることを目指したのが「秋水」である。ナチスドイツのメッサーシュミットMe163を手本としているが、技術資料が輸送中に失われ、内部機構は独自に開発せざるをえなかったという。

極めて機密度の高い計画のはずであり、一級の技術を持つ操縦士が集められたものと推察される。

しかしながら「秋水」の開発状況はお粗末なものであった。Sさんが訓練中の7月7日、ロケットエンジンを作動させての離陸、飛行実験が初めて行われたが、空中でエンジン停止、不時着に失敗し、操縦士は殉職している。結局、最後までロケット飛行は実現しなかった。

霞ヶ浦海軍航空隊と関連施設の想像図

Sさん達の訓練は、滑り込み着陸と(地上での)模擬射撃訓練が大半であった。秋水と同一の外見ながら、全て木製で羽布張り軽滑空機(グライダー)が、別に用意されていた。

霞浦は海軍の基地、まわりには零戦製作の工場もある。そのため何度か空襲を受けた。

夜、まっ暗い中、ドドンという地鳴りと、B二九の爆音がきこえる。南の空が、まっ赤に染まっている。・・・「こりゃ日本もおわりかなあ」と思ったり、「そんなことはない、今にわれわれが」と思いながら眠りにつく夜が続いた。

終戦の詔勅は・・・ラジオの声がよく出なく何のことか分らなかったが、数時間たって日本が敗れたことを知った。

わたしは復員後再び府中中学へ入学し、教職の道についた。』 「教え子を再び戦場へ送るまい」というスローガンを胸に。

この手記を書く2年前、Sさんは自身が1944年に書いた「休暇の感想文」を受け取った。鹿児島海軍航空隊の修了直前に、肉親との別れの時として配慮された休暇で、当時の班長が感想文をずっと保管していたのである。

この文面はわたしが、わたしの字で書いたものだが、どこかで見たような気もする。

・・・知覧の陸軍特攻基地跡の兵士にもこんなのがあったし、山口徳山沖の回天の基地でも将兵の遺言状にこのような文面と似たものがあった。

教育の力はおそろしいと思う。

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余談ながら、練習機「赤とんぼ」は意外と特攻に有効だったという。速度は遅いものの、鋼管/木製なのでレーダーに探知されにくく、近接信管が作動しにくいのが主要因である。虎尾海軍航空隊に残された「赤とんぼ」は、特攻隊「忠誠隊」に使用された。本土各地の飛行隊でも、大半の「赤とんぼ」を特攻用に改造していたという。

「秋水」は数分間の戦闘後は滑空して帰還する建前だったが、現実的にはB-29編隊中で自爆する特攻戦法になるしかないと、上層部は早くから決めていたという。Sさんは承知していなかったように思われるが。「秋水」が完成しなかったのは、彼には幸いであった。

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