「重荷五十年」16.戦時下を顧みて ‐ 高射砲部隊、飢餓作戦 ‐

Tさんは終戦当時34才、高射砲部隊の方角計算機長として席田(むしろだ)飛行場(現在の福岡空港)近くの陣地に居た。

Tさんの手記は、徴兵の前後で2つに分かれる。彼は銃後でも前線でも、「中間管理職的な立場」になったようで、とてもユニークな記述がある。

1931年9月、『満州事変勃発により予備役軍人に召集令状が来はじめた。・・・村には出征軍人遺家族援護会が作られ、私が会長に決まった。

出征兵士の家族が農業を続けられるよう、部落内や村内を駆け回って人の手配をお膳立てする役回りである。Tさんはおそらく、部落では耕作面積の広い農家の長男と思われる。

Tさんは自身は、徴兵検査を(たぶん)1932年春に受けて、その翌年1月から軍事教練を受けた後に、予備役になったはずである。

1931年11月、『造船材料の供出割当や、米の供出割当も来た。又、田麦の割当が十一町歩、八割の割当である。常会を開いても、みんな反対、政府へ返上せよと口をそろえる。ほどほど困って、自分の耕作田全部へ麦を植えることを申し出て、やっと割当を完遂することができた。

「田麦」とは水田の裏作として栽培する麦で、「十一町歩に植えて、収穫の8割を供出せよ」との指示と思われる。これに農家が反発するのは当然である。8割とか、江戸時代の年貢でもあり得ず、ほとんどただ働きせよと言うに等しい。

1937年2月1日、『私が二十六才で部落の農事実行組合の組合長に選ばれた。

六月に入ると麦の供出をせよ。部落で十俵の割当である。集会を開き協議すると、「今までに供出割当なんか来たことがない。その命令的な供出割当は役場へ戻せ」と口々に言う。私は皆に頼んでやっと各班二俵宛供出してもらう事に決まりホッとした。

大日本帝国では地方自治はゼロ、全くなかった。完全なる中央集権で、謂わば全国が天領で、県奉行(=県知事)があり、その下に郡奉行(=役場)があるような、上意下達の一方通行で、国民は支配されるだけだった。農民の供出への不満は当然すぎる。どの部落でも、Tさんのように中間管理職的な役目をさせられた人が居て、不満の爆発を辛うじて抑えていたのだろう。

大日本帝国末期の日本は、治安維持法下で自由な発言は全く出来ず、大政翼賛会化で選挙も形だけになり、徹底的に雁字搦めの中央集権だった。このような国家体制は、必然的に悲惨な結末に至る。その教訓を、日本人ならばしっかり学ばねばならない。

1943年10月11日、『役場吏員が自転車で赤紙を持ってこられた。「御出征です。おめでとう」と言われ、「ありがとうございます」とご挨拶致しました。日本男子の本懐之に過ぎずと喜んでわが家に入り、一同に報告しました。家には八十一才の祖母と妻、それに九才以下一才までの四人の子供がおりました。家族一同が一様に「いよいよ来るものが来たな」と言ったぎり後は何も言いません。

Tさんはすぐに組内や親類へ挨拶回りし、田畑の耕作面積を減らし、親牛を仔牛に替えた。大急ぎで準備して、組内や親類との別れの小宴を開いた。『(我が家へもう帰ることもあるまい。故郷の人々とも会うことはないだろう。ここで生まれて山野を眺めて三十二年、田畑を愛し耕作を続けてきたがこれが見納めだ)と静かに覚悟を定めながら・・・

Tさんは『比治山第二十五連隊』に入隊した。比治山に本部のある「第二十五防空連隊」であろう。敵機を迎え撃つ高射砲の部隊である。

九七式高射算定具と接続箱。出典はここ

各人に十五冊宛の書物が配られた。一週間で全部読んで暗記せよというのである。起床時から消灯時まで食事時間以外ひたすら読書である。・・・一週間経過後は実施訓練である。私たちは敵機と戦う軍隊である。三小隊に分かれて我が軍機か敵機か発見し、一秒間で高度と速度を、二秒以内に進行方向を見定める測定器の利用方法、敵機なら二十秒以内に高射砲弾を発射するなどの幾何学的内容の訓練である。

普通の部隊とは全く違う訓練である。高射砲隊の中でも、敵機の位置・速度から高射砲の射撃角度を決定する「計算機」小隊にTさんは配属されたのである。使用する機械は写真のようなもので、光学スコープで敵機を捉え続ければ、機械仕掛けで一定時間後(20秒後)の位置が計算され、アナログ信号で方角を出力するものと推測される。15冊の書物とは、作動原理や操作法の解説書なのではないか。

3月末頃、陣地構築作業の休憩中に、『「日本軍はこの戦争に負けるだろうーサイパン島が占領されたと新聞に出ているから」と言ったら、小隊長が火のようになって怒った。』とTさんは書いている。後述するように、日付が正確ではないが(サイパン島陥落は7月8日)、正しい認識を持っていたことは分かる。

四月十五日、同期入隊者がどんどん外地の野戦へと送り出される中、自分一人残され初年兵の指導係を命ぜられた。体操の号令と銃剣術の指導をするのである。五月一日付けで一等兵に進級、初年兵に、戦闘教育、対空戦闘機予切盤計算訓練、十五冊の教科書の周知徹底、実地指導と精神指導、破れた軍服の修理、上官に対する礼儀指導と巾ひろく任務を負わされた。

入隊半年後ではあるが、Tさんは当時33才ぐらいで、中間管理職的立場とするには性格的にも格好の人物だったのではないか。彼は計算機小隊の長となる。

1944年9月1日、『我等の連隊は全部九州へ転進することになった。広島を引き払って列車で福岡へと向かった。宗像郡池浦へ陣地を敷くことになり、まず兵舎を造らねばならない。』 現在の、宗像市池浦と思われる。

その前の1944年6月16日未明、八幡は本土で初めてB29編隊による空襲を受けた。八幡製鉄所(現在の北九州市戸畑区)を狙ったものであるが、爆弾投下が不正確で、製鉄所に被害はほとんどなく、周辺市街で256名が犠牲になったという。さらに、8月20日に昼夜2回の空襲があり、死傷者2百数十名という。北九州地域の防空体制強化が急務であった。

B29の発進基地と到達域。出典はここ

いずれの空襲も、中国の成都から飛来している。当時、成都は米軍が使える飛行場では最も日本に近かったが、B29の航続距離をもってしても、九州にぎりぎり届く距離だった。また燃料の制約で、日本爆撃は限定的だった。1944年当時、成都への連合軍補給ルートは、空輸に依存していた(インド・アッサム州ティンスキア―中国・昆明)。

米軍は並行して、1944年7月8日にサイパン島、8月2日テニアン島、8月10日グアム島と攻略し、それぞれに飛行場を築き、日本空爆の基地とした。これらマリアナ基地から発進したB29による初めての攻撃が、1944年11月24日の東京空襲である。

さて宗像郡池浦の陣地で、『十二月に入り、若い新兵が十三名、我が分隊に配属され、又私が教育係になった。十九年は終わり、二十年の正月を迎えたが、戦時下の正月は少しの油断もならない。初年兵が逃亡する恐れがあるから教育係は特に気をつかい、優しく指導するのである。全く軍隊とは上にも下にも気をつかい、大変なところであった。

上にも下にも気をつかうとは、Tさんだけのユニークな記述である。彼はイジメを受けていないようなので、新兵をイジメてはいないと思われるが。

二月二十八日夜、「敵機B二十九 六十機四編隊、九州に向かって侵入しつつあり、戦闘態勢につけ」と命令が来た。やがて「八幡製作所を爆撃しつつあり」の通報。私は計算機長として「測定をまちがえるな、決死の覚悟で戦え」と一同へ命令。やがて、高度千五百、航速百で侵入してきたB二十九はさすがに大きい。我らの上空に六十機が襲いかかるように入ってくる。照空燈は空を八方から照らし、高射砲の打ち上げも今こそと幾百発。二機へ命中し、落下傘で降下する姿も見た。ものすごい爆音で通り過ぎ、製鉄所を爆撃し、海上へ向かって飛び去った。我隊は標的外であったのか、一つの爆弾も落とさなかった。

ここが手記のハイライトなのだが、この時期に北九州地域の空襲記録が全く見つからない! おそらくこれだと思われるのが、関門海峡の機雷封鎖作戦である。

> 初出撃は沖縄戦を前にした3月27日で、これは関門海峡の西側入口の封鎖を目標にしていました。92機のB29が、1000ポンド(約450キロ)や2000ポンドの音響機雷、磁気機雷を海峡に投下したのです。

パラシュート付きの機雷を投下するB29。出典:Wikipedia

八幡製鉄所の目の前の海に機雷投下したのだから、八幡空襲と思うのも無理はない。日付が約一か月違うのは、50年前のことだし、終戦時に個人的な記録も全て破棄を命じられたためではないか。この手記集でも、空襲の日付が違っている例は多い。

これは「飢餓作戦」の初回攻撃で、日本本土の港湾や近海主要航路に機雷を投下し、海上輸送を麻痺させることを狙ったものである。作戦は非常に有効で、狙い通りの効果を上げた。米軍は外堀内堀を埋めるように、日本を締め上げていたのだ。

その7で、Fさんが乗る長江下りの船が、機雷にやられて座礁・炎上したエピソードを紹介した。日付は1945年2月9日で、米軍は長江で既に機雷投下作戦を実施していたのではないか。

Tさんの部隊は席田(むしろだ)飛行場(現在の福岡空港)近くへ移動することになった。新陣地構築中の5月8日朝、『上官が私の所へ来て「お前の祖母が七日亡くなったと村役場より通報が来た。しかしT兵長を帰郷させることはできない」と申し渡された。私は直ちに我が家の方へ向かって手を合わせ、一分間程祖母の冥福を祈り、又陣地の構築にとりかかった。

新陣地は6月3日にやっと完成した。6月19日から20日未明に、福岡大空襲があり、Tさんの部隊は全力で応戦したはずであるが、死者約1000人、1/3の家屋が罹災した。

それからは、今度は何処がやられた、やられたの情報ばかり、一同無念の思いに沈んだ。

八月十五日、十一時に上官から「十二時から天皇陛下のお言葉があるからラジオを聞くように」との命令があった。耳をすましていたが、小さい声でよく聞き取れなかったが、これが戦争終結宣言であった。

9月23日、Tさんはようやく自宅に戻ると、折からの台風・豪雨で裏山が崩れていた!

その後、家裏の土砂の除去、修理、永年の無理がたたった妻の病気、食糧不足、闇米、闇煙草売買の横行と大変な事が続いた。・・・でも、私はお陰で健康に恵まれ、・・・今日まで一度も入院したこともなく働くことができた事、幸せに思っている。

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