「重荷五十年」10.太平洋戦争の記憶 ‐ 小学生の視点 ‐

Iさんは終戦当時12才、『八月十五日盆の日、ラヂオ放送は天皇陛下の玉音放送で終戦の詔書でした。戦争が終ったのが信じられないようでした。これからの日本はどうなる、米軍が上陸して来たら日本国民は生きてはいられないのではと不安でした。

Iさんは寄稿者の中では最も若い。手記は、当時の生の記憶というよりも、客観的に整理されて網羅的な印象を受ける。項目ごとに主要部分を引用するだけで、概要が掴める。

1941年12月8日、太平洋戦争開戦を告げるラジオ臨時ニュースを、Iさん(当時小3)ははっきり覚えているという。『子供心にも戦争に対する不安と日本も重大な事態に直面したものだと感じました。

学校では毎朝、教育勅語を朗読して東方遥拝し、『「天皇陛下の為に、お国の為には喜んで死ぬのだ。一億国民総動員で戦い、鬼畜米英を撃滅して大東亜共栄圏を打ち立てるのだ」と教育されました。

プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」より。下も。

満蒙開拓青少年義勇軍に、当時満14、5才で次男三男などの先輩が、参加を強制奨励されて次々と満洲に向けて出発したという。ある上級生が「どうしてもいやだ」と言うと、『校長先生に国家の命に背く非国民であると激怒された』とIさんも聞いている。

日中戦争が始まり徴兵が多くなるにつれ、満州開拓移民の応募も少なくなった。そこで政府は1938年「満州開拓青少年義勇軍募集要綱」を定め、学校教育の中に組み込んだ。満14、5歳の少年を対象に、労働力として、将来の兵力として、満州に送り込んだ。県からの割当により、教師が強引に勧めた例もあった。

終戦までに送り出された少年達は8万5千人以上、 開拓移民の3割以上を占めるという。半強制的に親元から離され、満州に送り込まれた彼らは、ソ連侵攻による混乱で、いったい何人が命を落としたことだろうか。

そして招集令状(赤紙)が成人男子には容赦なく続々と届きました。・・・どれほど数多くの出征兵士を送ったことか。終戦近くには四十才以上のおじさんまでも出征されました。子供の頃には私達の目には本当におじさんに見えました。きのどくだと思いました。そして戦没者の慰霊祭にも幾度も参拝しました。

図3のように当時はあらゆる金属を供出(強制回収)させられた。学校の暖房器具である薪ストーブ/煙突も例外ではなく、『冬、教室での暖房具は木の枠で角型の土で固めた火鉢で、炭を燃料としていました。

緒戦の華々しい勝利もやがて、『ミッドウェイ海戦より次第に日本軍の旗色が悪くなり、・・・B29による空爆は東京をはじめ大都会をつぎつぎと焼野原としました。日本は神国である。神風が吹き、戦争は絶対勝つと教育され、私達も信じていました。

1945年5月には、呉市の小学校(国民学校)から女子23名が学童疎開してきた。お寺を寮として、当地の小学校へ通い、終戦後の9月まで滞在した(その2に記したように、7月1日夜の空襲で呉市街は壊滅している)。彼女らだけではなく、親戚を頼って都会から疎開してきた学童や大人も、Iさんは幾人も覚えている。

そして8月6日の広島原爆、その2日後には福山市(直線距離で約25km)が大空襲された。

福山が空襲された夜は外に出て見ると南の空を炎が焦がし米軍機の爆音が無気味に聞こえ、次は府中上下が空襲になるという噂があり・・・「ここも爆撃される。生きていられない。日本はもう駄目だ、敗ける」と子供心にも不安と恐怖に脅えました。

五十年過ぎた現在、戦争を語れる者も年老いてゆき、暫時減少していることは事実です。はかり知れない犠牲を残して終結した太平洋戦争は日本人にとって一体どういう意味があったのでしょうか。

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