「重荷五十年」11.銃後の守り ‐ 松根油と預金封鎖 ‐

Fさんは終戦当時42才、玉音放送を聞き『陛下の大御心を拝察申し上げ、感無量の思いである。

Fさんは最高齢の寄稿者で、手記を書かれたときは90才を越えていたことになる。

この辺りの田舎でも、隣組ごとに横穴式防空壕を掘っていたという。実際に空襲されたことはないが、上空にB29が飛来する(通り過ぎる)ことはあった。空襲警報のサイレンが鳴ると、昼は防空壕に駆け込み、夜は灯火管制で光が外に漏れないようにした。

物資の調達はきびしくなり、百姓が作った食糧になる物はほとんど供出を強いられ、百姓の我々の毎日の食事ですら不自由になり、色々な代用品で飢えを忍んでいた。衣類、食糧、その他の物もほとんど切符制となり、これが無かったら何一つ買えない。

前回(その10)と同様に、この地区にも呉市の小学校(国民学校)から学童疎開があり、お寺を寮として地区の小学校に通っていた。また学徒動員ということで、福山市の中学生10名が来て、出征兵士家庭の家業を手伝ったという。

Fさんも含めて地元に居た寄稿者は例外なく、松根油について触れているので、ここで少し詳しく記す。松明(たいまつ)という言葉がある通り、マツは油分を多く含み火力が強い。マツの切り株(古い方が良い)を掘り起こし、乾留(蒸し焼き)して油分を揮発させ、それを冷やして液体として取り出し、できれば航空燃料にしようとの目論見である。

出典は、左側右側

しかし山に入って切り株を掘り起こし運び出すのは大変な重労働である。鉄が足りないのに、専用の蒸し釜を用意し、燃料(薪)をいっぱい燃やし、わずかな油を取り出す。その油にさらに様々な化学処理を施さねばならない。

掛ける労力に対して、得られる成果があまりに少ない。非効率の極みである。結局、実用にならなかった。国民に無駄な労働をさせただけである。その労力を農産物の生産に充てた方がはるかに有効だったはずだ。竹槍と並ぶ大日本帝国の愚行として、松根油は記憶されるべきものである。

金属回収にしても、『勝つためにはと惜し気もなく、有りったけお互い供出した。しかし悲しくもお役に立たなかった』とFさんも記している通り、やはり無意味な大日本帝国の愚行である。雑多な金属を分別、精錬するような施設は、戦争末期にはもはやほとんどなかった。鍋、釜、鉄瓶、火鉢などを出して生活を不自由にし、仏像や釣り鐘などを出して貴重な文化財を失っただけである。駄目な政府ほど愚行をするものだ、現在がそうであるように。

そして終戦間近の頃、

今まで兵役の無かった当時四十一、二才の方が甲奴郡と神石郡の二郡で「甲神部隊」を編成せられた。その時は、一般の見送りは禁じられ、ひそかに上下(鉄道駅がある町)に集合し、福山の第五師団に入団され、ただちに広島に向かわれた。誠に痛ましいかな八月六日のピカドンで当村からの四人は全員亡くなられた。

敗戦後にただちにマッカーサーの支配下となり、自由平等をとなえられ国政はもとより思想も一変した。戦後と同時に貯金通帳、債券は封鎖となり、提出して確認の証紙を張られ、証紙の張ってない物は一切使用禁止となった。ただし生活費として一ケ月に千円だけは出す事が出来た。当時一円に至るまで紙幣であった故、それにも証紙を張っていない物はご同様で使えなかった。

旧円紙幣と証紙。日銀の解説 pdfより

上は旧円紙幣と証紙の例(日銀の解説資料より)。戦後、莫大な負債(対GDP比で現在とほぼ同じ)を抱えてインフレに悩んでいた政府は、GHQの指示により、1946年2月17日「新円発行、預金/債券封鎖、資産課税」という荒技を打ち出した。新円の発行が間に合わなかったので、当初は証紙を貼って代用した。

この施策により、国民の現金/預金資産を政府は全て把握できた。富裕層(資産10万円以上)には 25~90%(!)もの「財産税」を課して、破綻寸前の状況をどうにか乗り切っている。Fさんは特に文句を言ってないので、「財産税」は免れたものと思われる。

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