「重荷五十年」5.北支での戦争体験 - 日中戦争 –

Fさんは終戦当時32才、教員から再招集されて間もなく、広島で原爆被災対応に動員されていた。

彼の手記の主題は、原爆ではなく、1937~38年の日中戦争への従軍である。1937年7月7日の盧溝橋事件の直後、7月16日にFさんは召集令状を受け取る。8月4日に出征して広島に向かい、輜重(しちょう)隊に編入される。

出典はここ

輜重隊とは軍需物資を前線に運ぶ部隊で、日中戦争では画像の三九式輜重車が終戦まで主に使われた。前回紹介した自動車での輸送は、台数が少なく限定的だった。

Fさんの部隊は8月6日夜、宇品港に向かう。『沿道は人の波で万歳万歳の歓声で見送りを受ける。』 その大勢の人をかき分けて、思いがけず父親が現れ、別れの言葉を交わす。翌日午前2時出港。

輸送船は大きな貨物船で船底に馬、その上が我々兵隊の寝居室。兵士は畳一帖に三人身動きも出来ない有様。夏の真っ盛りで船中は馬の臭いが船底から吹き上げ、悪臭の中での食事。麦飯に玉葱のみそ汁、梅干し一人一ケ、五人に一ケのイワシの缶詰が三食の定食で、四日間全く往生のきわみ。

まるで奴隷船という他はない。「もしも輜重兵が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち、電信柱に花が咲く」という唄があるくらい、輜重兵は軽視されていた。

輸送船は大連に入港。数日間、人も馬も体調を整えた後、列車で出発。奉天経由で、山海関に向かい、万里の長城付近で下車。いよいよ馬を牽いて、徒歩の行軍が始まり、前線の戦闘部隊(第5師団、広島市が拠点)を追随する。南口鎮で初めて銃声を間近に聞く。

マジェンダは手記に登場する地名。シアンの地点も通ったと推定される。 「図説・日中戦争」より、加筆&トリム。

昼夜を問わず進軍、行事。食事は乾パン一袋が二食分。山野にあるナツメの実、畑の人参の徴発。人馬との共同生活、雨を外皮で覆い全身ビショぬれ、軍靴の中へ水が浸る。足は膨れ・・・夜間寄宿もなく路辺で背負袋をまくらに寝入ったものでしたが、片時も馬の手綱は離したことはなく・・・

Fさん達が屋根の下で寝泊まりできたのは、やっと懐来に着いてから。馬や自分達の食料調達で日々忙しくした。屋根の下に居ると、すぐに「しらみ」に取り付かれる。

体のありとあらゆる処に幼虫もあれば成虫と卵。吸血して黒く肥大したしらみ。・・・熱湯殺虫の外には駆除の方法はありませんでした。長い行軍と足痛。しらみ退治。頭髪と顔の毛の伸び。人間であって人間らしさは全くなく、大変難儀しました

1937年12月18日、Fさんの部隊は占領地である保定で、約一か月間休養する。数ヶ月ぶりの入浴、髭剃りなど、人間らしさをやっと取り戻す。

そしてまた転戦と行軍の繰り返し。(記載はないが)第5師団の動きからして、平型関から太原に到達し、保定に戻った思われる。折れ線でも経路は1500km以上もある。ただし保定-馬頭鎮の一部は、鉄道を利用したのではないか。

1938年4月30日、徐州近くの馬頭鎮で交戦中に、Fさんは右大腿部に貫通銃創を負う。

負傷の程度は弾丸の入った処は指頭大位、弾の出た処は手の四本指が入る程度で、数日間の僻包帯だけなので、傷が化膿し足がひどく膨れ、夜も昼も痛くて寝ることも出来ない状態が続き、野戦病院へ入ったのが、負傷後五日目で直ちに傷二力所ヘガーゼに黄色の薬液を浸し弾の通った穴掃除が手術。勿論麻酔もなしの生治療。あの時の苦しみは今でも忘れ得ぬ感です。

彼はその後、大連、広島、大津の病院へと移送され、夏には治癒退院となり召集解除となった。

7年後、Fさんは2度目の召集令状を受け取り、1945年8月4日、広島工兵隊に入隊。

8月6日、彼は仮兵舎だった安佐郡祇園女学校(現在のAICJ中・高等学校、爆心地から北に5km)に居た。『室内で被爆し、倒れたガラス戸破片で頭や顔を切る程度の負傷を受け、市内での負傷者の世話、死者を運ぶ世話などで疲れ果て、この世話仕事を中止、休養し、数日後召集解除となりました。

原爆関連は『神石郡内被爆者の会のピカドン誌』に寄稿済みとして、Fさんはこれ以上のことは書いていない。教員を1948年4月に退職しており、救護活動による被爆が原因かと推測される。

「ピカドン誌」とは、「ピカドン : 被爆の軌跡 被爆40周年記念誌」のことで、全3集あり、いずれも国会図書館からインターネット公開されている。

彼は最後に、第5師団の別の輜重隊が待ち伏せ攻撃で全滅した現場(平型関と思われる)の『無残な光景を今も思い出し、たまらない悲痛を覚えます。』と結んでいる。

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