「重荷五十年」6.戦争体験記 - 日中戦争 –

Kさんは終戦当時28才、陸軍主計准尉として広島市内に居たはずである。

彼の手記はたいへんユニークで、日付と軍令/軍務の箇条書きから成る。正確無比であるが、個人的感想は一切記していない。原爆投下時にどこに居たかも不明。(無記載なので)たいした負傷はなく、原爆救護活動をしたと思われるが、感想は全くない。

手記はこう始まる:

昭和十三年一月十日現役兵卜シテ步兵第四十一連隊補充隊第五中隊へ入営。

第5師団の第41連隊は、広島県福山市に本拠があった。広島県東部で徴兵された者として、彼は通常通りに入営し、3ヶ月間訓練を受けたと思われる。

Kさん達は、1938年4月17日に宇品を出港し、4月22日に青島に到着。5月6日、鄒城で第41連隊の第7中隊に合流。同日から5月29日まで、徐州会戦に参戦する。前回(その5)紹介したFさんが、4月30日に重症を負った馬頭鎮は、鄒城の南西140kmにある。

マジェンダは手記に登場する地名。「図説・日中戦争」より、加筆&トリム。

当時、徐州付近に中国軍は約50万人もの大兵力を集結させていた。日本軍は南北から約 20万人で挟み撃ちし、中国軍を西方に敗走させた。中国軍は敗走中に、黄河の堤防を爆破して洪水を起こし、日本軍の追撃を止めている。日本軍の戦死者は1万人近く、中国軍は5万人ほどと言われている。

Kさんの部隊は、徐州付近に留まり、津浦線(現在の京滬線、北京-徐州-南京-上海を結ぶ幹線鉄道)沿線の警備や掃蕩を担当した。彼はこの秋に急性腹膜炎で一ヶ月半ほど入院している。

1939年1月21日、彼は主計下士官候補者教育隊に入隊する。半年後に終業。

急造した部隊では幹部や専門家が不足していたので、当時は現地の部隊内で教育が行われたものと思われる。当然、やる気があって適性のありそうな兵士が選ばれたはずだ。Kさんは一兵卒から、幹部への第一歩である下士官になり、経理畑を歩むことになる。

1939年秋、第5師団は南寧攻略戦に動員され、Kさんも経理部付けとして従軍する。大連で部隊の体勢を整えて、10月28日に出港し、11月16日に(たぶん)欽州に上陸した。南寧を占領した後も、警備や周辺地区の殲滅戦に参加したと彼は記している。

南寧作戦の目的は、連合国側から中国軍への補給ルートを断つことで、仏領インドシナ(ベトナム)で陸揚げされた物資が南寧を通っていた。南寧占領後に、中国軍の大規模な反撃があり、賓陽などで激戦があったという。

1940年7月8日、Kさんはマラリアで入院する。かなり苦しんだはずだが、病状は何も記していない。台湾を経由して、広島陸軍病院に戻され、年末にようやく退院した。彼はこれ以降、留守第5師団の経理部付けとして、ほぼ国内に留まっている。

1945年8月6日、Kさんがどこに居たかは分からない。その前、4月1日付けで兵器部に転属しているので、広島陸軍兵器補給廠(現在の広大医学部、爆心地から南東に2.8km)に居た可能性がある。屋内に居て窓際以外なら、ほぼ無傷で済んだと思われる。この建物は救護所として活用された。

中国軍管区(留守第5師団から改称)の司令部は広島城(爆心地から北に0.8km)にあったが、地上部は壊滅している。司令官と参謀5名が死亡し、参謀長が指揮を執っている。

1930年の「軍都」広島、マジェンダは陸軍関係施設。赤丸は爆心地。第5師団の存在ゆえに原爆の第一目標とされたのであろう。Wikipediaより。

Kさんは玉音放送についても全く記していない。戦後は、経理部付けに戻り、中国からの復員支援などに従事し、1946年3月31日召集解除となった。

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