Yさんは終戦当時45才、ソ連軍が侵攻してきたため、北朝鮮の咸鏡（かんきょう）北道・清津から北に避難していた。
咸鏡北道は北朝鮮の東北の端にある行政区で、清津が中心都市である。
Yさんは咸北旅客自動車（株）の経営者で、会社は城津（現在の金策市、咸鏡北道の南端）に本拠を置いていた。会社の資本金は300万円（現在の5億円相当）、Yさんの個人資産は550万円（現在の9億円相当）で、咸鏡北道の日本人社会ではよく知られた名士だったはずである。
咸北旅客自動車が具体的にどのような業種かは、本手記を精読しても検索しても分からなかった。バスやタクシーを運行する会社にも思えるが、工場があったとのことから、本土からエンジンなど主要部品を購入して、組立・架装してバスやタクシーなどに仕上げる会社だったのではないか。当時の車は、ほぼトラックと同じ造りで、簡単に組立できる構造だった。
なお、この手記集が編集された当時、Yさんはすでに亡くなっており、この地域に嫁がれていた娘さんが遺稿を寄せられたものである。以下で、●印は原文にあるサブタイトルで、これを拾うだけで概要は掴める。
===
●ソ連の参戦 家族を緊急避難さす
『戦争もいよいよ終末ごろとなって、B29が毎夜、清津を空襲する状況となって来た。軍の命令で、咸北防空監視隊が設置された。・・・私は、本部の隊長を命ぜられた。任務は、敵機の情報を速やかに軍、警察、憲兵隊に急報することであった。隊員五百名、通信機専門の現役軍人十名が部下であった。』
1945年8月8日、ソ連が宣戦布告した当日、
『ソ連が参戦した日の午後二時ごろ、ソ連機二十六機が清津を爆撃し、市内に相当の被害が出た。』
8月12日夜、ソ連軍が海上から清津に上陸してくるとのことで、軍人約1000人、警官約200人が警備に当たった。軍隊の主力は南方に廻され、残っていたのは老兵ばかり、装備は歩兵銃が二人に一丁だけの哀れさだった。Yさんは家族を城津に避難させ、自身は防空監視隊長として清津に残った。
翌13日午前、ソ連兵は上陸してきた。徹夜明けの警備員は全員昼寝していた。Yさんも本部の三階で寝ていた。
『港内を見ると駆船艇十隻が煙幕を張って機関銃を市中に乱射しつつ上陸している。』
Yさんは直ちに、監視隊を解散し、家に帰るように命じた。
『ソ連兵の上陸と同時に各官公署は、もはやこれまで、と相続いて自爆して果てた。ちょうど敵機の爆撃によって、大型爆弾が命中して破裂すると同時に大音響をひびかせて各建物が爆砕してゆく光景は、筆舌に表わせない悲惨な状態であった。ソ連兵上陸に対しても日本側は、一発の弾丸も撃たず、逃走することに一生懸命で警察も憲兵も府庁の幹部もいちばん先に逃げて行方不明だった。』
Yさんが警察署へ行くと、全員逃げて誰もいなかった。市内を巡視して、最後に小学校に行くと、
『校庭に四十五才までの日本人男子、約百二十人くらいが召集されていた。隊長が「Yさん、ソ連兵はいま駅前まで進入しているから早く避難しなさい。私等は、今夜ソ連陣地にきり込んで追い払いますから、また早く帰って下さい」と言った。』
全員死亡したと、Yさんは後日聞いた。
●清津から城津へ脱出
8月13日夜、Yさんは5千人くらいの市民と共に、古茂山（清津の北）に避難した。小さな部落で食糧も宿もないが、ここで三泊した。
折良く、軍の食糧輸送列車に乗せてもらい、白頭山の南側を回る路線（地図には書かれていない）を経由して、8月18日夜、城津に到着した。まだソ連兵は来ていなかった。Yさんの家族は昨夜南に発ったと、友人の検事が教えてくれた。
翌19日、会社に行くとみんな無事だった。朝鮮人幹部もみんな来ていたので、Yさんは幹部集会を開き、
『「日本人は朝鮮に居住できないと思う。そこで、朝鮮人従業員の諸君に会社（咸北旅客自動車（株）資本金三百万円）全部を無償で与えるから、諸君、みんなで仲よく働いて貰いたい」と言って、本店、支店の責任者、工場長、各主任等を指名して、別れのあいさつをした。』
Yさんは個人資産も全てを与えた。後日、聞いたところでは、敵性資産として会社は没収され国営化されたという。
●敗戦……ソ連軍城津に進駐 鮮人保安隊 ソ連憲兵と共動、日本人有力者を留置
『城津は二十年間、私の血と汗のしみ込んだ第二の故郷で、全財産がこの町にある。この財産を処分して金を持って帰りたいという物欲が起きたときであった。』
8月20日、城津の守備隊長・今泉少将は日本人、朝鮮人の有力者100名余りを集め、朝鮮軍司令官と朝鮮総督の命令を伝えた。
『「日本人は、今後、二年くらいこのままこの地に残れ。日本本土は食糧や物資もなく、帰国は二年後でなければできない。・・・日本人の生命財産は日本軍によって守るから安心して直ちに職場につけ」』
しかしその当日午後6時頃、
『約二十台のソ連戦車がゴウゴウと市内に進駐して来た。・・・朝鮮人は進駐して来た 族、貨車で南に出たことを知る。』
『ソ連兵は、日本人住宅に二～三人で、また、五人くらいで軍靴のままで上り、手当り次第に服、着物、特に腕時計を取って出た。』
『日本人の婦人は昼夜の区別なくピストルをつきつけられて暴行される。場所がないときは家族の眼前で暴行される。立上って逃げると銃殺される。こうしたときは、ソ連兵は必ず二人以上来て、一人が監視している状態の中で暴行が行なわれた。』
『私の会社の支店の課長は、妻がソ連兵に辱められるのを見て、二人の子供を道づれに自殺した。生地獄とはこんなものをいうのだろう。こんなことは、まだ小さいことでとうてい口や筆で記すこともできないほどの事件が起きたが、あまりにも悲惨で、真相を発表する勇気も出ない。』
●ソ連憲兵隊、ニッチナ中尉、証明書 暴行不良兵 字が読めない囚人
8月22日、Yさんもとうとう憲兵隊に連行された。ニッチナ中尉によって取調ベが始まり、
『「北から城津に出て来る役人、憲兵、警察のスパイを見つけて憲兵隊に連れて来い。本人がおらなければ姓名と住所を書いて毎日午前十時に持ってこい。いやならお前も留置場に入れ、ソ連に連れて帰るがどちらがよいか?」「もし、お前が逃げたら銃殺する。お前の背後には、いつも監視兵がついているぞ」』
Yさんは、70才以上の人（労働に使えないので、シベリア送りされない）や、既に引っ張られている人を告げるなどして、なんとか誤魔化した。
ソ連兵の暴行が酷いので、Yさんは『「留置場に入れてくれ。その方が安全だ」』とニッチナ中尉に頼んだが、拒否された。代わりに、隊長のサインと憲兵隊の印を押した証明書をくれた。ロシア語でこう書いてあるという：
『「Yは、ゲーペーウに協力する者であるから、これを保護する」』
不良ソ連兵がYさんの自宅に押し入ってくるので、証明書を見せると引き下がる者も居たが、
『証明書を捨てて暴行する者が十人のうち六、七人はいた。後で判明したのであるが、これらの兵隊は字が読めない兵隊で、刑務所から出た囚人兵がほとんど北鮮に回されていることがわかり、そこで初めて彼等の行動や行為が非常識で野蛮な行動ばかりであることがうなづけた。』
●治安隊に捕り三尺の独房に入獄 昨日の従業員が検事で取調べ
8月28日、Yさんは三尺の独房に入れられた。ニッチナ中尉の憲兵隊が移動した日に、治安隊に捕まった。その後の記述から推測すると、働けそうな者はとにかくシベリア送りするのがソ連側の狙いだったと思われる。
獄舎も安全では全くなかった。
『毎夜、一時、二時ころ飲酒したソ連兵が巡視に来て、監視に「日本人はいないか」といって聞き、私の室の戸をあけさせて「お前は、スパイで入っているのなら俺が銃殺する」という。監視が「スパイではない。違う」と言っても聞き入れない。しまいには、私にビン夕を二、三回張りとばし、足で蹴とばして帰る。夜中に二、三回来ては暴行された。』
食事も粗末で、このままでは死んでしまうかとYさんが思ったほど酷かった。幸にも『地獄で神に出会う』かのように、顔見知りの朝鮮人数人も監獄に入れられており、待遇がマシな彼らが食事を分けてくれたので、凌ぐことが出来た。
ある日、Yさんは裁判所に引き出された。
『コンクートの土間に「底座」と監視が言って座らされた。上を見るとソ連憲兵十五人と前の列に朝鮮人の検事正一人、検事一人、事務員三人、土間にベルト、竹のムチを持った朝鮮人四人がいる。』
『初めに検事が言った。「自分の顔に見覚えがあるか」と。見上げると、意外にも昨日まで部下として、自動車会社城津支店で使っていた部品係長の李行善であった。』
『李行善は優秀な社員で、課長からたびたび「赤だから首をきれ」といわれたが商業学校出の特別優等生なので係長にした人物である。それが終戦と同時に検事となったとのことであった。』
検事正も元社員の金玉善であった。彼も「赤だから首をきれ」と言われながらも、優秀なので係長にした人物である。ただし彼は 10年前に日本人の長とケンカをしてしまい、辞めさせざるを得なかった。その後、ソ連に逃げ、今回帰国して検事正になったという。
この日は一通りの人定質問で終わった。
翌日午後5時半ころ、Yさんは再び尋問に呼び出された。ソ連兵はだれも居らず、検事正、検事、事務員の三人だけで、Yさんも椅子に座れた。
金検事正が『今日は、叩きも殺しもしませんから正直に言って下さい』と言って尋問が始まった。彼を辞めさせた理由や現在の朝鮮人に対する考えなど、1時間あまりの意見交換をして、彼の誤解も解けたようであった。
次に李検事が、Yさんの公的な行い3件につき詳細に質した。Yさんは堂々と弁明し、その他も含めて『何一つとして不正がないことを彼等は認めて』、3時間半に及ぶ取り調べは終わった。彼らはこう言って去った。
『ソ連憲兵がいかに決定するかわからないが、悪くないように報告するから心配するな。』
その後は取り調べは全くなかった。しかし、毎夜のように夜1～2時ころソ連兵が来て、暴行をして帰る。監視を通して保安隊長に訴えたら、『三畳間に三人いる朝鮮人の部屋に入れてくれて、やっと安心して寝られるようになった。』
●入獄六十二日目の幸福 従業員検事が貨車で脱出さす
入獄して62日目（10月28日であろうか）朝5時頃、李検事が通訳を連れて現れ、Yさんを監房から出し、
『「貴方をソ連に渡すことになったから逃げなさい」と私に言った。「本当ですか？」と半信半疑で聞きかえすと「本当だ。あなたには、自動車会社でお世話になった。ご恩返しをさせて下さい」と言った。』
さらに、Yさんが朝鮮語を話せないので、朝鮮語の上手なK君も釈放して同行させると言う。
『今夜十時半、満州から引揚げる避難民の貨車が駅に着く。これに無蓋車を一両連結して、この貨車に自分が案内して乗せる。』
李検事はYさんとK君を農家に連れて行った。そこには新品の着替えと荷支度が用意してあり、久しぶりの入浴と髭剃りの後、米の飯で祝福してくれた。
夜10時、二人は駅に行き、李検事の案内で指定された無蓋車に飛び乗った。
『そして彼は「毛布を頭から覆って、朝鮮人が話しかけても決して話をしてはならない。日本人と見破られたら保安隊に連行され、ソ連に渡されたら日本に帰られませんよ」と言って私の手をギュッと握った。私も無言で互いに手を握りかえして別れた。』
やがて構内に貨物列車が入り、彼らの無蓋車は後尾に連結され、南に向って発車した。
『私はK君の手をしっかり握って「助かった」と思うと涙が止めどもなく眼底から泉のように湧き出て、嬉し泣きにジッと歯を食いしばってガリガリと噛んだ。』
●機関車を外され、徒歩で脱出
発車して1時間くらいで、列車は止まってしまい動かない。夜が明けて見ると、機関車がない！ ソ連部隊の機関車が故障したため、代わりに徴用されたのだと後に分かった。
やがて保安隊が現れ、『「日本人は居ないか、居れば出て来い」』と大声が聞こえる。
『二人は顔を見合わせて、無蓋車から飛び降りて山の方に一目散に逃走した。背後から「日本人が居たぞ！居たぞ！」と大声をあげて二十人くらい後を追って来た。しかし山の中には入って来ず・・・叫ぶだけであった。』
二人の徒歩での逃避行が始まる。城津から汽車で1時間の地点というから、路線図で次の駅・端川を過ぎたぐらいであろうか。その辺りから 38度線を越えるまで歩いたという。線路沿いでも350kmはある距離だ。警戒の厳しい大きい道路を避け、
『昼は小さい道を歩き、夜は朝鮮人の農家に行き、粟飯を食べ、牛舎の納屋で藁の中に寝て朝早く出発した。』
●警戒厳重の三十八度線に到着 K君京城で家族と涙の対面、家族内地に無事引揚げを知る
『早く家族に会いたい。そして早く日本に帰りたい思いで、雨の日も、雪の日も、一日も休まず歩き続けた。苦労に苦労して、ようやく三十八度線の鉄橋まで出ることができた。しかし、警戒厳重でとても渡ることができない。』
『上流に向って十里くらい歩いたが三十八度線の道路はソ連兵がジープと騎馬とで川を渡る者を警戒監視しているのでなかなか難しい。二時間くらいだっただろう。山の上から見ていた。少しの隙に二人は川に飛び込んで胸くらいの水の中を泳ぐようにして遂に向岸に着いた。そのとき、K君と抱き合って「助かった。オイ、助かったぞ」と言ってポロポロと大粒の涙が流れるのを拭うともせず泣いた。』
日付は書かれていないが、1945年11月中旬と思われる。しばらく歩いていると、二人は南鮮の保安隊に呼び止められた。K君は怖がって逃げたが、Yさんは大人しく隊長の所に出向くと、ご馳走で歓待してくれた。
『「今夜ここに泊って、明日はトラックが京城から来るから送ってあげます。」』
『保安隊でも北と南とでは、地獄と極楽との相違があるものだとしみじみ思った。』
宿に向かう途中で、K君が山の中からガサガサッと音を立てて飛び出して来て、合流することが出来た。宿では深夜、当地の保安隊長がYさんを確認しにやってきた。彼は城津での知己で、
『「私は城津の鉄道病院に居った金です。この地は私の故郷で、終戦と同時に引揚げて来たのです。この地の保安隊長をしています。よく出られましたな。」』
翌朝トラックが来て、二人はそれに便乗して京城（ソウル）に出た。
以降は、さらに簡略化して、概要のみを記す。
●京城で北鮮抑留同胞の救出協議 政府に陳情決定 交渉に内地に帰る
当時、約2万人の日本人が北鮮に抑留されたままで、既に累計5千人以上も死亡していた。Yさんら、北鮮から避難してきた有力者は、どうにか救出する方法はないかと毎日協議した。金を払って取り返そうと数回使者を送ったが、金は没収、使者はソ連に引き渡されただけだった。
この現状を新聞報道してもらい、日本政府に引き揚げの陳情をすべく、Yさんが代表としてまず帰国することになった。帰国日は、残念ながら記載がなく、不明である。
●無条件降伏の悲哀 原爆の悲惨 北鮮と天地の差 引揚げ者の救済 住宅 食糧 開拓
家族との涙の再会もそこそこに、Yさんは帰国3日目に広島の中国新聞社に向かう。しかし、マッカーサーに怒られるから、北鮮の悲惨な状況など記事に出来ないと、けんもほろろに断られる。
新聞社を出て改めて市内を見れば、一面の焼け野原。
『北鮮の悲惨も悲劇であったが、広島の悲惨は北鮮と比べものにならないように思われて、しばらく立って合掌をしていた。』
次にYさんは県庁に向かい、北鮮から引き上げた同郷の25世帯の入植先を交渉し、県と国で六十町歩を買収してもらう件をまとめた。
●在外財産補償を政府に要求 第一回五百万円 第二回千二百九十五億円交付さす
その後、Yさんは『社団法人引揚げ者団体全国連合会の理事をした。そして、全国引揚げ者四百万同胞の在外資産補償運動を起こし、政府をして第一回昭和三十二年、一時金として五百万円を交付させた。その後も・・・昭和四十二年（第一回から十年後）第二回の補償交付金、千九百二十五億円を交付させることができた。』
===
以下は感想。
紹介その21の作成にはとても難渋した。ほぼ全てが、初めて知る内容ばかりであり、背景を探ろうと検索しても、たいてい何も見つからない。だから引用が多い。戦後全く国交がないとは、こういうことなのだと実感する。
情報がまるでないからこそ、この手記は特に貴重である。
最も驚いたのは、あっと言う間に南北の分割統治体制が出来上がったこと。知らぬは日本人ばかりで、南北とも朝鮮人は日本の敗戦を見越しており、少なくとも心の準備は出来ていたように思える。朝鮮民主主義人民共和国が建国されたのは3年後の1948年9月だが、終戦当時に金日成らの影響力はあったのだろうか？
ソ連が来るというだけで我先に逃げ出した日本人は、やはり「ここは植民地、自分達は侵略者」という意識があったのだろうか。しかし早く逃げたのは正解だった。ソ連軍は8月下旬に38度線を封鎖し、南に逃れるのは困難になり、Yさんのように命懸けの逃避行を余儀なくされた。
いったい何人の日本人が、敗戦後に北朝鮮で亡くなったのだろうか。約4万人と言われ、未だに約2万7千柱の遺骨が北朝鮮各地に眠っているとされる。
遺骨収集の話は、国レベルでは全く進んでいない。日本政府は拉致問題ばかりを取り上げ（しかし何も行動せず）、北朝鮮を敵視するばかりで、桁違いに関係者の多い遺骨収集や日本人配偶者問題（93,000人以上とされる）を放置したままであり、協議さえ全くやろうとしない。
日本には北朝鮮と敵対する理由はない。米国がロシア、中国を睨むために、極東に米軍を配備する大義名分として、朝鮮戦争を休戦中としており、日本はそれに付き合わされているだけなのだ。
朝鮮戦争終結宣言が出なければ、日本の戦後は終わらない。
