「重荷五十年」22.私の戦争体験 ‐ 満州に留用/引揚げ ‐

Hさんは終戦当時24才、満洲・吉林の病院の薬剤師で、医局食堂で玉音放送を聞き呆然とした。

病院は満洲人造石油株式会社の経営で、看護学校も併設し、Hさんはその教員も務めていたようだ。Hさんの父親は、同社の教育関連業務に携わっていたようだが、詳細は不明である。

人造石油とは、石炭に水素を高温高圧で添加するなど、何らかの手段で液体の燃料を得るもの。当時の燃料事情からして、この事業の重要度はたいへん高く、満州でも屈指の資本金の大企業であった。日本窒素と満州国政府により1939年に設立され、1943年に満鉄の傘下に移管されたという。

出典はここ

上図は、現在の吉林市のGoogleMaps。四角点線枠は、下図の古い地図(1941年)に対応する範囲を示す。当時に比べて、現在の市街地は大きく拡がっている。上図の楕円部分は、当時「新吉林」と呼ばれていた地区で、病院も人造石油会社も新吉林にあったが、詳細位置は不明。

1945年『八月九日、早朝ものすごい光と音で目がさめる。すぐに父の部屋に行く。照明弾だろうと茶の間へとんで行き、ラジオのスイッチを入る。九日未明ソ連との宣戦布告である。さあ大変今までと違う。国は近いので、植民地の国にいる日本人? その日は九州長崎にも原子爆弾がおとされる。

昭和二十年八月十五日、正午日本歴史を大きく変えた敗戦が天皇の玉音放送で知らされる。医局食堂で昼食をしていた私達一同呆然としたと同時に三百万と言われる同胞が全く無力となり遠い異境の地に放り出されたのである。

八月二十日頃、吉林市内にソ連兵が入って来る。そして会社倉庫の襲撃略奪、暴行がはじまる。又軍の自動車や戦車など夜昼をてっしてソ連へはこぶ。・・・一週間の内に何も彼も取りおさえられ、劇場の椅子から幕までもはずして持ち去る。

無智な兵隊が多く時計の見方も分らないのに、時計を出せ、万年筆を出せと言う。婦女子に暴行やいたずらをする様になる。若い婦人達は頭をそり丸坊主にして服も男物のナッパ服に身を包んでいた。

前回のYさんも書いていた通り、満州/朝鮮に侵攻したソ連軍には元囚人が多く含まれており、乱暴狼藉の限りを尽くした。

病院を含む満洲人造石油の日本人社員全員は、ソ連軍の管理下に入った。病院は安全地帯で、昼間はソ連軍の護衛もあり診療も普通に行われ、Hさんは平常通りに出勤した。

いつだったか引揚げを前に(避難者が)薬局に来て、「病身な母を早く楽にして上げたい」と言って来る。そんな(毒薬を処方するような)ことは出来ない。ほんとうに考えれば悲惨そのものであった。

1946年1月、ソ連軍が引き揚げた。代わりに、

(中国人の)保安隊が出来る。そしてソ連軍を見習ってか何や彼やと無理難題を要求して来る。

病院も会社も閉鎖となり、Hさんら日本人の収入もなくなった。

洋服や着物の、余り布で人形を作ったり、刺繍のある帯では枕を作ったり、葉煙草を買って来て英語の辞書の紙がよいので、辞書をバラバラにして巻煙草を作り三家子の満人街に売りに行くがよく売れた。中にはお風呂をついて風呂屋を始めたり、おだんごを作ったり、旧正月にはお餅まで搗いて売り歩かれた人達も出来た。

父は日本へ帰国を前にここで死んだ人達を社宅から少し離れた広場で火葬にして遺骨を日本に持ち帰られる様にして上げた。

日本への帰国の日取りはなかなか決まらなかった。ようやく1946年7月27日、吉林を列車で出発することになった。Hさん達は新吉林から吉林まで徒歩で移動し、総員2,800人もの残留日本人に合流し、後は乗車を待つだけとなった。

午後三時頃中国人の兵隊(国民党軍)がいばって私達の班に来た。そして私の名前を二三回呼び、留用命令だから来いと言う。・・・何の説明もなくただ拳銃をつきつけて来いと言う。・・・医者も看護婦も留用したからお前も来いと無理を言う。私が命令にそむけば此処にいる日本人全員を帰さないと言う。

私一人のために皆に、迷惑がかかる様になっては申訳ないと考え、意を決して「私は残りますから皆さんを日本に無事に帰してあげて下さい」と申し出た。この時の私の心中父母、妹の心情はとても筆舌には表わされるものではない。

留用とは、日本人を現地に留め、それまでの仕事を続けさせることである。命令を受けたのは、病院では内科医、看護師2名、Hさんの計4人、人造石油会社では電機課の4人であった。病院は満州人を含む総勢13人で、診療を再開した。

昭和二十二年日本人仲間八人で淋しいお正月を迎える。

1947年5月、国民党軍と八路軍の戦闘が新吉林に迫り、Hさんたちは

命からがらに戦火に追われて吉林市へ避難する。・・・吉林市内の留用者(家族も含めて130人ほど)と体をよせ合って生活を始める。

6月、Hさん達はおそらく全員が留用解除となり、『牛馬を運ぶ少々臭い貨車』で長春(新京)に移送された。長春では他の留用者など残留日本人と合流し、総勢3,000人程になった。

長春から瀋陽(奉天)迄は八路戦のため鉄道沿線はめちゃくちゃなので中華民政軍のトラックに乗せられる。・・・みわたすかぎりの大平野。雨の日もつっぱしる。夜となると車の音やヘッドライトであぶないとかで、日本人小学校跡や、倉庫跡に体を寄せ合って寝る。トラックの旅は一週間かかってやっと瀋陽につく。

瀋陽(奉天)では、また全満洲からの残留日本人の集結を待つことになった。10月になりやっと帰れることになり、

今度は石炭を運ぶ無蓋貨車に乗せられる。途中雨にも会いずぶぬれになりながら昼夜ぶっ通しで満洲平野を走る。・・・そこには私達日本人を迎えに来てくれた大きな「英彦丸」の姿が見えた。

満州からの大半の帰還者と同じく、Hさん達は葫芦島(ころとう)港から日本に向かったと思われる。葫芦島市は、瀋陽と天津のほぼ中間にあり、渤海湾に面する。

1947年10月7日、貨物船「英彦丸」は佐世保港に到着。しかし、ここでさらに20日間、検疫隔離のため足止めされた。

「隔離解除出発センコトヲ証明ス」と引揚げ証明書』をもらって、彼女が故郷に向かい、家族全員と再会したのは10月28日であった。

昭和二十二年十月三十日役場に行き、帰国の手続をし、長かった私の戦争?留用と引揚げの記を終える。

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実は、満州邦人の帰国遅れ/多数の死者やシベリア抑留は「大本営による意図的な棄兵・棄民の結果」なのである。

大本営から関東軍に「棄兵・棄民」を指示した文書がソ連に押収されており、それが1993年に公開されたのである。保阪正康「検証・昭和史の焦点」やこのブログで紹介されている。

大日本帝国はその末期、究極の反日(本人)国家であったことの紛う事なき証拠である。

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