日本会議や神政連が「皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有」、「日本の歴史と国柄を踏まえた新憲法」などと言うとき、想定しているのは大日本帝国であろう。しかし大日本帝国は日本史上の特異な一時期であり、本来の日本の歴史・文化・伝統とはかけ離れた例外であり、回帰すべきものではなく、特大の失敗例であることをはっきりさせたい。
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と天皇を現人神として奉り、絶対的な威光を創作して立憲君主制を採用したのは、西欧列強によって植民地にされるのではないかとの危機感の顕れともいえる。列強に対抗できる国造り、富国強兵の方向に国民の意識を統一し動員する必要があった。
天照大神を最高神、天皇を現人神とする「国家神道」が、長い日本の伝統を強調するためもあって推進された。これは「天皇と伊勢神宮を中心とする国家的祭祀制度」で、宗教を超越したものとされ、日本国民の教育・道徳の根源とされた。教育勅語を教典として国粋主義教育が行われ、天皇のために命を捧げることを至高とし、忠君愛国、滅私奉公、忠孝一致、一億一心、神州不滅などを叩き込まれた。
自国が植民地になる畏れが全くなくなると、次は歴史上の様々な帝国と同じように、植民地を獲得する側になり、さらに侵略してもっと植民地を拡大しようした。その行き着く末として「一億総玉砕」の存亡危機事態に陥る。その頃には国家神道は「天皇一神教」ともいうべき過激さを呈した。
「八紘一宇」で大東亜共栄圏を正当化するのは、コーランを掲げて世界征服を目指したり、聖地奪還の大義で「十字軍」が暴虐の限りを尽くすのと、その本質は同じである。「天皇陛下万歳!」と叫び突撃する特攻隊と「アッラーアクバル!」と叫び突撃するイスラム過激派とにほとんど違いはない。
歴史的に天皇が実権(武力)を握っていた期間は意外に短い。天皇親政ともなると、その期間を全て足しても100年間以内とされる。実権を持つと何がまずいか?
第一に跡目相続争いが起こり易くなる。壬申の乱や南北朝時代のように、国を2分する深刻な争いになる。下々の者にはどちらでも変わらないのに、ひどい戦乱に巻きこまれてしまう。
第二に実権を持てば、必ず責任が伴う。実権を行使すれば、時にはひどく失敗する。「一億総玉砕」の危機は極端な例である。失敗すれば、天皇と言えども責任を取らねばならない。ウィルヘルム2世のように、昭和天皇が戦犯として訴追され、天皇制が廃止になったとしても不思議ではなかった。天皇のあり方として、大日本帝国時代は不幸な例外で、特大の失敗例である。
国民の人権と生命・財産を守るために国家はあるのに、310万もの自国民を死なせ、全土を焼け野原にしてしまったのだ。近隣諸国の犠牲者はいったい幾らになるのか、2千万とも言われるが、正確な数さえ不明である。
「象徴」天皇という形態こそ、歴史に学んだ日本の伝統的な知恵だと考える。天皇制の長い歴史や固有の文化を大事にしたいのであれば、なおさら天皇に実権と責任を持たせてはいけない。持たせなければこそ、権威が傷つく怖れもなく、万世一系が可能になり得る。
「天皇一神教」も極めて例外的である。そもそも神社というもの自体が、中央集権的な「国家神道」には全くそぐわない。神社本来の姿は、非常に多彩な「八百万の神」(山、岩、巨木、川、滝、湖沼、民俗神、実在/伝説の人物、稲荷、猿、鯨、性器までも)をありとあらゆる場所で祀るものである。日本人は多様な価値観と多様な自然を、そのような形で愛でてきたのである。天皇だけを絶体神とする国家神道は歴史的に見ても「異端」であり、大日本帝国は「天皇一神教」に支配された特異な一時代に過ぎず、日本の伝統的な文化では決してない。
伊勢神宮を天皇家の神社として特別扱いし、全ての神社の格上に位置づけるのは、実はあまり根拠がない。確かな事実として、伊勢神宮に天皇として参拝したのは明治天皇が最初なのである。それ以前はどの天皇も参拝していない。
壬申の乱を起こした大海人皇子は、後に勝利して天武天皇となるが、伊勢に一時期滞在した。当時の伊勢は奈良や京都から見れば、遠隔の未開地であった。すでに存在していた小さく簡素な伊勢神宮に彼は参拝し、戦勝祈願したとされる。当時の伊勢神宮に祀られていたのは、天照大神ではなく、その地の霊魂であった。
天武天皇となった彼は、お礼として、五十鈴川のほとり、現在の伊勢神宮の地に立派な社殿を建立し移すこととした。当時は彼の指示により、天皇家の神権的絶対性を確立するため、「古事記」、「日本書記」の編纂が始まっていた。社殿は次の持統天皇の時代に完成し、天照大神が祀られる。しかし天照大神は「古事記」によって政治的に定義・創られた神話と考えるべきであって、伊勢神宮元来の神に対しては無礼とも言うべきである。そのためもあってか持統天皇自身も参拝することはなく、皇統が天武系から天智系に戻ったこともあり、皇室とは長らく遠い存在であった。
伊勢神宮の式年遷宮は、天武天皇の意志で当初より行われており、その資金を確保するために多くの参拝者を招くような開放的施策をとった。江戸時代に伊勢神宮が全国的に有名になったのは、その自助努力の成果と言われる。
明治政府は伊勢神宮の人気を利用して、政治的に神話を再定義したともいえる。このように歴史は支配者が作るのである。
靖国神社も明治政府によるもので、国家神道と軍国主義の大日本帝国を構成する最後の要素となる。「天皇のために命を捧げ」て「英霊」になるとの美名の下に、兵士の命を極めて粗末に扱った実態を知れば、慰霊の施設としては欺瞞と評するしかない。
いわゆる戦死者210万人のうち、6割以上が「餓死・病死」との推計がある。兵站を無視して食料・医薬品も全く不十分なまま戦線を展開したため、戦う前の行軍で(日中戦争、インパール作戦など)、戦闘では無傷だったのにその後の転戦・行軍で(ガダルカナル戦、レイテ戦など)、多くが餓死・病死した。特攻も究極の人命軽視である。人命を石ころのように扱って死なせておきながら、合祀で済ませた訳である。
A級戦犯の合祀により、さらに奇妙な事態になる。犠牲者と戦争責任者を同じ所に祀って、平和のために慰霊すると言われても、論理的にも感情的にも全く理解しがたい。死者に善悪はないとの議論がある。しかし戊辰戦争の幕府軍や西南戦争の薩摩軍の死者を排除している実情からして、全く説得力がない。靖国神社は大日本帝国の記念碑、残り火としか言いようがなくなった。
ドイツで戦死者追悼施設にナチス幹部やヒトラーも含まれていたならば、我々はどう見るだろうか? ナチス・ドイツの記念碑と見るだろうし、ナチス関係者の子孫以外は訪れることをためらうだろう。1931年9月18日~1945年8月15日の大日本帝国を否定的に捉える一般国民には、靖国神社も同様に見える。米国を始めとする戦勝国にも、同様に見えるだろう。
「皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統」と唱える連中にとって、最も困るのは皮肉なことに天皇家の振る舞いかも知れない。A級戦犯合祀以降、天皇は靖国神社に参拝していない。明仁天皇や皇太子は一般国民とほぼ同じ歴史感覚をお持ちのようで、平成天皇自身も「(象徴制が)伝統的な天皇の在り方に沿うもの」と発言されている。
最後に、2015全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉を引用する。【 】内が2014年に比べて、追加・変更された部分である。天皇のお気持ちと安倍政権や日本会議などの目指すところは逆である。天皇を戴くと言う彼らのほうが、むしろ「朝敵」のように見えるのである。
「深い悲しみを新たに」
ここに過去を顧み、【さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、】戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。