「重荷五十年」4.軍国時代回顧  – 関東軍/ノモンハン事件 –

Hさんは終戦当時32才、陸軍工科学校の(たぶん)教官として神奈川県淵野辺にいた。

祖父は日露戦争で受勲、父は退役した陸軍将校(獣医)という軍人家系で、Hさんは21才で徴兵検査に合格。父の勧めもあり、陸軍工科学校を受験し合格。彼はそれまで逓信省の電信技術関係の仕事をしていた。

当時、20歳に達した男子は全員徴兵検査を受ける義務があり、4~5月頃に通知が届き、地元で検査が行われた。彼の誕生日は5月頃と思われる。合格すると、翌年の1月10日に入営し軍事教練を受ける、あるいは戦況が逼迫していれば召集令状が届いて戦場に送られる。

彼は陸軍工科学校に合格とサラッと書いてるが、1934年(昭和9年)の例では、8400名が応募、書類審査などを経て実際に受験したのは2300名、合格者は150名という狭き門であった。いずれ将校(少尉以上)になるか、ふつうに2等兵から始めるかでは、天と地ほどの処遇差がある。戦場では生死を分けるだろう。寄稿者のうち、将校だったのはHさんだけである。

当時、陸軍工科学校は東京小石川(現在の礫川公園、丸ノ内線後楽園駅の側)にあった。2年間(おそらく1935年4月~37年3月)将来の幹部として厳しく叩き上げられた。在学中に226事件があり、短いながら、彼は共感的なコメントを記している。

卒業前の面接で志望を問われ、Hさんは思わず満州国の関東軍と確答したという。1937年7月の盧溝橋事件と日中戦争が間近に迫っていた。

満州に着任したのは1937年末。長春(新京)の飛行隊に配属され、彼は部下8名を従える整備工場係であった。試験飛行などで、『下界の景色を眼下に見る好気分が印象に残っている。

1年後に砲兵隊に転任。ここでも始めは『休日や夕方等近辺の小道や民家の辺りを乗馬で楽しむ』余裕があった。エリート軍人だからである。しかしすぐに阿城(チチハル)の関東軍の砲兵司令部付となり、技術部兵器係の任務を与えられる。

仕事は、主に自動車、資材、武器の管理、各砲兵隊間の連絡等であった。自動車は十台を越える重軽大小の貨物車、高級、中級、普通の乗用車、伝令用、及び指揮用サイドカー付のオートバイ等・・・

1939年5月11日、ノモンハン事件が勃発する(第一次:5月11~31日、第二次:6月27~9月16日)。満州国-モンゴル国境での、戦略的に意味のない、偶発的な局地戦争である。

第一次は双方とも、2千人規模で戦闘し、約300人づつの死傷者を出して、退却。日本側はもう拡大したくないのが本音で、これで収束と思っていた。その間にソ連軍は本気で部隊を増強した。

第二次ではソ連/モンゴルの総兵力が約8万人、日本は戦闘に参加したのは約2万3千人。火砲、戦車ではもっと差があった。死傷者1万6千人以上で、日本陸軍第23師団は壊滅した。ソ連/モンゴル軍はさらに多い2万5千人以上の死傷者を出したが、彼らが想定する(ほぼ現在の)国境まで、日本軍を押し戻した。日本は戦力を無駄に消耗しただけと評価されている。

出典:図説・日中戦争

Hさんの自動車班は(たぶん)7月6日早朝、燃料、銃器、資材など積み込んだ大小数10台を連ねてチチハルを出発。夕方には約460km離れたハイラルに到着。ハイラルはシベリア鉄道が通る街で、道路も整備されていたと思われるが、かなり速い(35km/h×13時間ぐらいか)。

荷物を積み替え、その日のうちに夜行軍で前線に向かう。直線距離は180kmほどだが、ここからが遠い。

7月9日:『不整地多く車が泥沼や砂に埋る。行軍の行程が捗らない。そこで観測車を泥沼から苦心して引き揚げた時思わず皆で万歳を三唱した。又々夜行車に入る。二夜三夜不眠も唯緊張でハンドルをとる。難路不明路を過ぎ三百粁も突走った。

Hさんは当時の日誌を残しており、7月9日~29日分を転記している。幕営地に到着したのは、7月10日20時頃。日誌の内容は、車の故障、パンク、埋没など、彼の任務に関することが主体だが、7月後半になると戦況の厳しさを伝えるものが増えてくる。

7月22日:『敵機の大軍の空爆あり。砂漠の底地に作られた縦穴式防空壕の中で直射を受けた四名の兵の死体を見る。悲惨。手をふるわしてしばらく合掌す

日本軍兵士と破壊されたソ連戦車(後方)。クリックして拡大。出典:Wikipedia

7月23日:『砲弾の破片が身近の五十cmに二回飛んで来た。もう覚悟は出来ている。何時死んでもいい!!

7月25日:『離れた友軍部隊からも次々と戦死通報来る

7月28日:『戦場の跡は血なま臭いと言うより腐敗臭が鼻を刺す

後方部隊と交代のため、彼は7月29日に戦線を離れてハイラルに戻った。ノモンハン事件がどのような形で終結したのか、彼にはよく判らないと記している。

出典:GooglMaps

GoogleMapsで、ノモンハン付近の写真を探すと、慰霊碑がいくつか見つかる。これはその一つで、碑文のロシア語を英訳すると“MEMORY OF THE HERO of the Soviet Union  I.M. PEMI30BA DEDICATED IN 1989”。背景の草原の凹凸は、塹壕の跡ではないだろうか。他にも4ヵ所、これよりずっと立派な慰霊碑がある。碑文までは読めないが、モンゴル人兵士を讃えるものであろう。

翌1940年、陸軍技術部の命令により、Hさんは帰国し、母校の陸軍工科学校に戻る。技術系の教官と推定する。学校は神奈川県淵野辺(現在の麻布大学)に移転していた。その後、終戦まで個人的なことは全く記載がない。

終戦時に現役将校だったHさんは、5年間公職追放の判決を受けた。『日本国も又自分も平和を得るための犠牲が如何に長く大きかったかつくづく思われる。

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