「重荷五十年」20.戦争の思い出 ‐ 油木農学校、ストライキ ‐

Sさんは終戦当時15才、油木農学校で開墾作業中に、校庭に呼び戻されて玉音放送を聞いた。

Sさんの手記の内容は、その8~11の「銃後の守り」に近いが、戦後すぐにたいへん興味深い記述があるので、この位置で紹介することにした。

御真影の一例、ほとんど新興宗教の教祖夫妻。出典はここ

祝祭日には学校で式典があり、校長先生は最敬礼のうちにモーニングに白手袋で御真影を開かれ、国歌を歌い、校長先生の教育勅語の朗読、訓示等が行われていた。また当時は「国家神道」の時代でもあり神社を中心にした公的行事も多く、祝祭日等には団体での神社参拝があり神社参拝歌を歌っていた。

予備知識なしにこの情景を想像すれば、新興宗教の学校ではないかとだれしも思うだろう。公立と知ればさらに驚き、この国は「カルト」と断じるだろう。万世一系とか皇紀2600年とか、本気で信じていたのであろうか? 我々がオウム真理教団をそう見るように、客観的な歴史の目からは、大日本帝国は狂気のカルト国家としか見えないだろう。

Sさんが現在の中学2年生相当の時(1944年と思われる)、

国民学校卒業前高等科二年男子(四〇名)全員海軍へ志願するよう指示され、全員油木農学校(現在の高校)で試験があり、受験した。試験は格好の良い海軍の士官やその他の試験官によって行われたが四〇名の内合格者は一○名程で、さらに合格者でも採用洩れの者もあって、採用された者は、三~四名程になったと思う。私は試験には合格したが、採用洩れとなり、残念に思っていた。

3,4名ほどに絞っても、全国的には膨大な人数であり、海軍はとても教育しきれなかったのではないか。

現在では海軍への採用洩れが、自分の運命に大きく影響があったと幸に思っている。』とSさんは書いているが、その14など他の寄稿者の例からして、空襲には遭遇しても戦地に行くことはなかったと思われる。

やむなくSさんは、油木農学校へ進学した。

学校での日課は、晴れの日は、教練担当の教諭や配属将校による軍事教練の外は、殆どが食糧増産の為の開墾や、広大な実習地での農作業(畜産、養蚕を含む)で、それは農業学校としての実習の域を越えた、厳しいものであった。そのほか炭坑へ送る為の杭木運搬、燃料自給の炭焼き炭材運搬等山への往復は駆け足で行われ苦しかった・・・

雨天の日はやむなく、教室での授業を受けていた。服装も、教練以外は制服を着ることは許されず、実習作業はもとより、通学も校内での授業の場合も、紺色のハッピに黒帯をしめ、地下足袋、または藁草履に巻ゲートルを着け、戦闘帽という出立ちであった。

学校とは名ばかりで、軍事教練と農作業の強制労働で明け暮れたようである。軍隊に行かなくても、工場に徴用されなくても、やらされることはあまり変わらなかった。全国で、あらゆる年齢層で、奴隷的な労働を強要されたのである。

終戦になっても、戦後の混乱、食糧事情、生活物資の不足は解消されるどころか深刻を極め、教科書はパンフレットのような薄い物、ノートは無く、印刷した更紙の裏を使って綴り合せて使ったり、馬ふん紙や、方眼紙まで使った程であった。また無制限な開墾作業等の実習も依然として緩和されず、一部の教諭の態度も変らず戦時教育体制が続いたので、生徒の不満は募る一方であった。その不満、怒りは極限に達し、同級生(A、B、二学級あり)全員が学校近くの神社の森に集まりストライキを決行した。その当時は労働組合の結成もなく、ストは異例のことで民主化への先達とも思えた。先生方は、生徒の不満に気付き、それ以降態度が変り学校の方針も改まっていったようであった。

15、6才の学生達が起こした 1945年のストライキ! 特筆すべき目覚ましい事柄なのだが、残念ながら、見つかった資料はこれだけである:「広島県史年表(昭和戦前)  p. 57

> 10-30 広島県立油木農学校男子部の3年生徒120 人,学校に農園生産物の処分問題等につき意見書を提出し,同盟休校に突入

ストライキの経緯など詳細は全く不明である。敗戦により、それまで教えられてきたことや権威がガラガラポンと崩れてしまい、学生達は洗脳から素早く抜け出したことが窺える。たいへん貴重な記録である。

中央のグランドと右下の建物群が広島県立油木高校(かっての油木農学校)。左上の亀鶴山吉備津神社に集まり、ストライキを決行したのであろう。GoogleEarthより

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