「重荷五十年」19.戦争体験記 ‐ 日中戦争、フィリピン・ミンダナオ島 ‐

Fさんは終戦当時27才、航空警備担当の下士官であったが、米軍に追われてフィリピン・ミンダナオ島内のジャングルを彷徨っていた。

彼は1939年1月10日に召集され、4月には中国に送り込まれ、浙江省嘉興(かこう、上海の南西80km)において鉄道警備を担当した。

1942年2月、Fさんは『江蘇省太湖のほとり宜興(ぎこう)に至り、前線基地青膨山(高さ一〇二m)山上にて歩兵部隊の援護を主とした野砲1門を所有する分遣隊長として軍務に励む。

宜興は上海中心部からほぼ真西に160km、太湖をちょうど越えた辺りにある。約6km先にある中国軍の前線基地と対峙する最前線であった。

17年3月我が前線基地が支那軍の襲撃を受け、交戦するも、立哨地の歩兵は全滅し、我が分遣隊員の砲手1名戦死1名負傷す。しかし我が野砲の威力に圧倒され、敵も進撃出来ず撤退した。

この戦闘により部隊配置が変更になったようで、1942年5月、Fさんは帰国し

陸軍航空警備下士官として第113教育飛行連隊へ転属し立川陸軍航空整備学校下士官(武装)』の教育を受ける。飛行場警備が彼の任務となった。

1944年5月、彼はフィリピン派遣命令を受ける。東京港を発ち、大牟田へ寄港し、『台湾高雄港にて輸送船団(輸送船15隻駆逐艦3隻)を編成して比島に向かうも、途中バシー海峡にて米軍の潜水艦の攻撃を受け輸送船6隻を失う。

バシー海峡とは、台湾とルソン島間の海峡で、高雄を出航後間もなく襲撃されたと思われる。マニラを経由して、6月に任地であるミンダナオ島マライバライ飛行場に着き、Fさんは警備に当たる。

Fさんの手記は、軍人調で、骨子だけに圧縮されており短い。補足のために、当時のフィリピン戦線の状況を簡単にまとめておく(下図参照):

○レイテ沖海戦 1944年10月20~25日
レイテ島に上陸しようとする米軍を、日本海軍が総力を挙げて迎撃。特攻戦術が初めて本格的に使われたが、米軍の圧勝に終わり、日本海軍の艦隊戦力は事実上消滅した。

○レイテ島の戦い 1944年10月20日~
米軍が圧倒的な戦力で、タクロバンなど東岸に上陸。12月末までに、日本軍は陣地を放棄して敗走。ジャングルに立てこもり抵抗を続けたが、8万4千人中、7万9千人余りが戦死。主に餓死・病死。

○ルソン島の戦い 1945年1月9日~
米軍が西岸のリンガエン湾に上陸。戦車で南下しマニラに進撃する。抗日ゲリラもここぞとばかりに、米軍に協力。2月始めから1ヶ月間に亘り、マニラで激しい市街戦が展開され、中心部は廃墟に、10万人以上のマニラ市民が犠牲になった。米軍は、3月にマニラを制圧、6月までにルソン島のほぼ全域を制圧。日本軍は山中に逃れて抵抗を続けたが、25万人中、21万7千人が戦死。主に餓死・病死。

Fさんの任地ミンダナオ島には、4万3千人の日本兵が居た。ルソン島が決着したので、米軍はミンダナオ島の掃討作戦を始めた。日本軍は2万5千人が戦死、主に餓死・病死。

昭和20年7月米軍ミンダナオ島ダバオに上陸、戦果は不利となりやむなく飛行場を放棄して山中に入り時期到来を伺う、この山中での行動は、米軍に発見されないよう今までの日常生活とは異なる行動を余儀なくされた。食べ物は自分で確保せねば誰もしてくれない、病気になっても(南方特有のマラリヤ)薬はなく誰も看護はしてくれない。そして日常の食べ物は原住民の栽培した、米、サツマイモを横取りする。そのため原住民の怒りを受け射殺された兵士もいた。一ケ所に多くの兵が居ることは出来ず、少数での行動を余儀なくされた。

病気になった兵士の看護もしてやれない。こんな思いは今までに経験した事はなく、個人主義になったのも初めてである。負け戦の惨めさをつくづくと感じさせられた。

Fさんとしては最大限の文字数を費やしたと思われるこの記述の中に、どれだけの地獄の情景が詰まっていることだろうか。米軍や抗日ゲリラに追われ、飢えとマラリアに苦しみ、食料を捜してジャングルを当てもなく彷徨う日々。前回(その18)のKさんは住民の助けがあって生存できたが、Fさんの場合、住民はほぼ全て敵であった。

ミンダナオ島で同じような状況にあった方の証言からは、地獄がありありと目に浮かぶ:「死臭漂うジャングル、私は鬼だった 地獄を伝える95歳」。

Fさんはもちろん、8月15日の終戦を知らなかった。横井庄一さんや小野田寛郎さんのようになる可能性もあったが、幸いにも、

同年10月に及び我々山中の兵士に同僚より敗戦の報に接し、マライバライに下山し米軍に降伏し捕虜となる。そして戦争犯罪者として抑留される者もいたけれども、同年12月に捕虜収容所を出発し、12月23日神奈川県浦賀港に上陸し、復員第1歩となれり。

支那大陸での交戦、目前にて戦友の戦死、なぜこんな悲劇を展開せねばならないのか、又バシー海峡でなんの抵抗も出来ず沈没した輸送船の戦友の事、終戦前、ミンダナオ島での山中の行動など、心に焼き付き無名の戦死者も多くいる事を知って貰いたい。

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