17Tさんは終戦当時37才、中国戦線に動員されて(おそらく)湖南省にいた。
Tさんは、1944年5月、寄稿者のなかでは最高齢で召集されている。徴兵検査は1928か 29年に受けていたはずで、予備役であったと思われる。『吾も亦病身』との記述があるので、そのために召集が遅かったのかも知れない。彼ほどの高齢で病気気味の人をも、前線に送り出すような戦況であったのだ。
彼が中国戦線に送られた時期と、湖南省や長沙という地名が出てくることから、湘桂作戦にまずは動員されたと思われる。引き続き、芷江作戦に従軍した可能性が高い。当時、中国軍は米国軍からの支援を受けて勢いを増しており、芷江作戦では日本軍は多くの犠牲を出して敗退している。
Tさんの手記は短い。短歌30首を、14景で記している。詳細は分からないが、印象的で、示唆的である。短歌のレベルはとても高いように、私には思える。その中から以下に、5首を紹介する:
『召さる日の 近かしとさとり わが妻に 牛耕ならわす 身の切なさよ』(1944年春)
『母の背て 旗をふる児も あわれなり 父の別れと 知るやしらすや』(1944年5月)
『父ははや われを待たすに 逝きたるか 中支の仮りねに 見る夢枕』
『昨日まて 健やかなりし 戦友(とも)はいま 遺骨となりて さひしくねむる』
『広島に 帰りて見れは 大陸に ひなんせしかと はすかしく思う』(1946年7月17日)