「重荷五十年」13.青春回顧錄 ‐ 満州開拓村、仙台飛行学校 ‐

Fさんは終戦当時20才、陸軍の特別甲種幹部候補生として仙台飛行学校で訓練中で、「九七式重爆撃機」と共に疎開地である白石に居た。

手記の前半は青年師範学校時代で、満州の開拓村を夏休みに訪れ勤労奉仕を行っている。後半は、陸軍の特別甲種幹部候補生として仙台飛行学校での訓練の日々を綴っている。

1941年12月27日、Fさんは広島県立油木農学校を卒業。太平洋戦争開戦のため、全国の中等学校は在学期間が3カ月短縮され、軍人志願か、軍需工場への就職を促された。Fさんは青年学校教員養成所(学制改革により青年師範学校となる)に進学予定のため、3ヶ月間は来見(くるみ)村立青年学校へ臨時任用となった。

油木農学校は当時、神石郡でおそらく唯一の中等学校で、現在では神石郡で唯一の高等学校になっている。青年学校とは、(尋常小学校卒業後に進学せず)勤労に従事する青少年に対して、社会教育を行っていた。特に農村部で、農作業に縛られて進学できない生徒が多かったために、採られた制度であろう。下の学校系統図を参照。

1944年当時の学校系統図、文部科学省より

この間に、Fさんは親友のKさんを出征兵士として見送った。予科練習生として土浦海軍航空隊に赴いたのだが、あれが『彼との最後の別れとは夢にも思わなかった。後日特攻隊として・・・

Fさんは1942年4月、青年学校教員養成所に入所。一般教養、専門科目の学習はそこそこに、

銃剣道で気力、体力の養成、教練、国防競技・・・校外での勤労奉仕作業もあり、正に月月火水木金金の歌の文句のとおり一日八時間の授業が毎日の日課となったのである。夏休みは返上、七月二十日から八月末まで授業はなく、実習と勤労奉仕で盆休みとして五日間程度の休暇が許されるだけであった。

Fさんの学年として、二年生の夏休み期間、満州国の開拓団入植地へ勤労奉仕に行きたいとの要望を出し、曲折の末に実現。政府は「満州建設勤労奉仕隊」を推奨していたので、学生も影響されたと思われる。当時禁止されていた修学旅行に代わるものでもあった。

奉仕隊(隊員39名、引率1名)は1943年7月30日出発、下関から連絡船に乗り、31日夕 釜山へ、そこから鉄道で 8月1日夕 鴨緑江を渡り、奉天(瀋陽)、ハルビンを経由して、8月4日『世羅村開拓団(吉林省叙蘭県)内の広島県立報国農場へ無事到着。

翌日から奉仕作業が始まる。

主な仕事は・・・エン麦の収穫、タバコの収穫乾燥、ヤン草刈と縄ない、飼料用野草の刈取り、馬鈴薯の収穫、草取り(ヨモギでも二米位の草丈)等々であった。・・・隊員の疲労も重なり、腹痛、下痢などの症状で休むものが増加、二十一名にもなった。宿舎で休養していても昼はハエの大群、夜はノミの群、布団を広げると二十匹余りが飛びまわる(日本のノミより少し黒い)ので安眠できなかった。

満洲開拓民入植図。● 開拓団、■ 義勇隊訓練所(満15~18才の青少年を入植訓練させた)、▲ 義勇隊開拓団。日本各地から、満州全土の約800ヵ所に、27万人が開拓移民として渡った。開拓地の名前から、国内のどこから来たかを容易に推測できる。満蒙開拓平和記念館より。

世羅(せら)村開拓団とは、上図で下線を付した「上金馬川世羅」か「下金第二世羅」のどちらかと思われる。広島県では、世羅郡からが特に多く、約750人が入植した。「開拓」とは名ばかりで、実際は中国人の農地を安く買い叩いて奪った土地が多かった。入植者はいわば侵略の尖兵であった。それなのにソ連侵攻の際は、関東軍から置き去りにされ、全くの放置。引き揚げが始まったのはようやく 1946年5月からである。世羅開拓団でも、帰国までに約200人が亡くなったという。

Fさん達は8月25日で奉仕作業を終え、翌日から満州各地を見学しながら、帰途につく。首都・新京(長春)では、

市内電車も日本人車と満人車(クリー車)と区別していた。また列車内では満人乗客に日本人がニーデプシン(逃げろの意)と大声を出すと次の車両に移り、その空席を日本人が占有するなど大東共栄圏、五族共和などの美辞と現実は異なり、満人の人権は軽視されていたのである。

彼は特に撫順炭鉱の巨大さに驚いている。総括として、

この一カ月間の体験は中国語の勉強、雄大な大地に働く開拓者、満州各都市の観光から学んだものなど数えきれない無形の財産として、数多くの場で役立てることができたのである。

1943年の二学期、飛行予科練習生などに志願して入隊する学生が増えてくる。10月には学生徴兵延期が停止となり、すでに満20才以上の者は同年12月1日以降に入隊となった。

1944年4月、青年師範学校となり3年生に進級するも、修学期間は6カ月短縮されて、9月卒業予定となった。5月には陸軍の特別甲種幹部候補生(特甲幹、航空兵力強化が目的)制度が発表された。恩師の出征姿にも影響され、Fさんは教員よりも、特甲幹を受験することにした。

6月30日に第一次の身体検査と検査官による試問を受ける。航空兵として甲種合格。二次試験は7月27日、4人の検査官の前で『約五分間試問を受け汗だくだくで答弁した。』 その結果は9月上旬『我が校より十六名が合格通知を受け取り、欣喜雀躍よろこび合った思い出は今も忘れられない(内一名は原爆で戦死)。

この合格発表を待つ間に、Fさんは徴兵検査を受け、宇品の機甲訓練所で自動車、戦車の機構学習ならびに操縦訓練を16日間受けている。

9月22日、Fさんは青年師範学校を卒業。飛行学校に入るまでの3ヶ月間、(隣村にある)小畠青年学校へ就任したものの、『当時の青年学校も食糧増産の実習が多く、入隊する生徒もあり、まともな教育はできなかった。

1945年1月7日、Fさんは出征し、仙台の陸軍飛行学校(現在の仙台空港)へ向かう。

全国各地より集った同志と入校の手続きを終え、軍装品の支給を受け、軍服の襟へ陸軍伍長の階級章、幹部候補生の星、胸部へ航空隊の翼マークをつけて入校式にのぞむ。』同期生は40名で、第四区隊と称した。

最初の3ヶ月間は通常の歩兵訓練で、飛行場内にカボチャ、サツマイモの植付けや、農家へ農作業の手伝いも行った。

九七式重爆撃機。出典:Wikipedia

4月から、第四区隊の本務である「九七式重爆撃機整備」の教育・訓練が始まった。航空機に関する専門的な知識の習得、金属加工基礎技術の実習、九七式重爆撃機の分解組立、エンジンの分解組立整備で、『作業衣姿で油まみれとなり毎日特訓を受けたのである。

「九七式」は日本軍の主力爆撃機で、(当時の中華民国首都である)重慶の無差別爆撃にも使われた。しかしB-29と比べれば、寸法で約半分、容量で~1/5に過ぎず、航続距離の倍以上の差は決定的であった。

九七式重爆撃機とB-29の主な仕様比較

B-29は高度12,000mにまで上昇出来ることに注目! 空気の薄い高空でも十分なエンジン出力を得るには、過給器が必須である。B-29のエンジンはターボチャージャー(排気ガスを利用した過給器)を装備していた。日本のゼロ戦などはスーパーチャージャー(機械式過給器)であり、効率的に劣っていたので、巡航高度としては6,000mまでに留まった。そもそも機体に気密性がないため、酸素マスクをしても、操縦士が耐えられなかった。だからB-29は日本の上空を悠々と飛び、やりたい放題に爆撃できたのである。

6月末、米軍機襲来が頻繁になり、第四区隊全体が『白石へ疎開することになり機体を分解、白石小学校近くの山林へ搬送、組立ることになった。』 約二週間かかって組立完了後に、林の中で『無事に試運転成功。隊員みんな万歳三唱して喜ぶその感激は今も耳うつ気がする。

1945年7月10日夜、『仙台市もB29の空襲を受け、またたく間に火の海となった。勿論飛行学校もその対象であった。我々は軍人でありながらも武器の備えもなく茫然と眺めるだけであった。

8月6日は、『広島が新型爆弾(原爆)投下により、壊滅的被害を受けたというニュースを聞いて広島県人として、日本軍人として米軍への反発心、怒りは高まるばかりであった。

玉音放送は、『炎天下の校庭に不動の姿勢で待っていたが、雑音ばかりで何のことやらさっぱりわからず一時間後に終戦の詔勅であったと中隊長より聞き、張りつめた弦が切れ、気力を失ってしまったのであるが、反面無心した如くに郷里へ帰る心境になった。

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