「重荷五十年」12.戦争体験記 ‐ 死んでも帰れぬニューギニア ‐

12Iさんは終戦当時23才、ニューギニア島南西部に取り残された80名ほどの一ヶ中隊の下士官だった。

ニューギニア戦線は最も苛酷で、20万人も動員されて生還したのは僅か2万人、死因は大半が餓死、病死である。しかし彼は悠々と生還した。パプア人(ニューギニア原住民)との交流のお陰である。彼の長い手記(36ページ)の半分以上が、まるで文化人類学者のように、パプア人との交流や観察記録に割かれている。

Iさんはニューギニア以前のことは僅かしか書いていない。入隊したのは1939年初め頃、17才の時と思われる。従って、彼は志願したに違いない。その頃は徴兵検査が満20才、志願は満17才からであった(1944年に徴兵検査は満17才に、志願は満14才からに早められている)。

1939年当時、志願兵はまだ少なく、Iさんは希少な若手として可愛がられ、下士官教育をきっちり受けたのではないかと推察される。1943年、彼が希望してニューギニア最前線に来るまでは、ずっと国内に居たようである。

===

手記に記載はないが、Iさんが派遣される前までのニューギニア戦線を簡単にまとめておく。

図2のニューギニア島は長さ 2400km、最大幅 700km、面積 78.6万km^2で、日本の約2倍。南緯 0~11度の範囲にあり、東経141度辺りを境界として、西がオランダ領(現インドネシア領)、東がオーストラリア領(現パプアニューギニア領)であった。ニューギニアは、連合国軍・オーストラリアと対峙する最前線であった。

出典。マジェンダの注釈を追記。

太平洋戦争開始早々の1942年1月、日本軍はまずラバウルを攻略し、この地域の本拠地とした。次いで3月には、ラエとサラモアにも上陸した。狙いは豪軍の本拠地・ポートモレスビーの攻略である。空母で海からの攻略を目指していたが、5月の珊瑚礁海戦(ニューギニア東部のソロモン海)で連合国側必死の反撃に遭い、互いに大きな損害を出し、作戦は続行不能になった。

次に陸路で攻略する作戦が立てられ、ブナを7月に占領した。直線距離で160kmほどだが、低地は熱帯雨林、2000mを越す険しい山岳地帯、食料補給さえなし、マラリア・・・と悪条件ばかりの中を、(分解した)重火器や弾薬を人力で運搬するという、無謀極まりない作戦であった。この間、ガダルカナル島の戦いで、日本軍は壊滅的な損害を被って撤退したため、ポートモレスビー作戦も中止となった。

1942年11月16日、連合軍がブナに上陸し、激烈な戦いが始まった。広島の第5師団からも応援に回されていたが、1943年1月2日、ブナ守備隊は全滅した。これ以降、日本軍は一方的な守勢に立たされる。

===

Iさんがなぜニューギニア最前線を希望したかは、全く書いてない。かっての仲間の全滅を彼は知っていたはずであり、彼には期するものがあったのかも知れない。

派遣されたのは、第5師団の担当領域である南西部の地点・ケクワ(Keawkwa、上図のミミカと記された辺り)で、オーストラリアと直接対峙する最前線に位置する。しかし幸いなことに、この地域では結局、地上戦は全く起こらなかった。

Iさんは、1943年2月シンガポールに、次いでジャワ島スラバヤ、カイ諸島(当時現地司令部あり)を経由し、数ヶ月掛けてニューギニア島に到着した(正確な日付は不明)。経由地はいずれも第五師団が占領し、駐留している場所である。

ジャワ島では占領以降戦闘がなく、本土よりも平穏な場所と言われ、「ジャワは天国、ビルマ(現ミャンマー)は地獄、死んでも帰れぬニューギニア」という表現もある。ニューギニアで死んだ兵士の大半は、遺骨さえ戻っていない。

一ヶ中隊というから、200人ぐらいの部隊が派遣され、滑走路を含む前線基地を建設した。

一線の警備は勿論、第一が治安維持、情報収集、宣撫工作が重要な任務であった。先ず住民を把握し手中に収めなければならない。住民(パプア人)の習性、性格、生活習慣、環境などの総てを知るために彼等に接触し、自ら心中に飛び込んで行かねばならない。したがって行動を共にし、共に食い、共に寝て彼等に安心感を持たせることによって情報をキャッチし、苦力(人夫)にも使用できたのである。

住民は・・・協調心、団結力はすばらしく、勇敢で義侠心に富んだ所もあった。従ってだましたり、ごまかしたりは絶対禁物だった。

宿舎の建築、陸地構築、飛行場の設定、食料などの物質収集にどうしても現地人の手を借りなければならない。まず宣撫を兼ねて人集め、木切り、穴掘り、資材の運搬、総て人海戦術、特に飛行場の空襲でもあった時は昼夜兼行で復旧せねばならず、こんな時総力をあげての住民の協力はまことに有り難かった。賃金代わりに大巾の木綿布を裂いて褌代わりに与えたり、持参した子安貝を与えた(これは余り好まなかった)。

もちろん言葉は通じず、インドネシア人通訳を介しての会話である。終戦頃には、Iさんも現地語を話せるようになっている。

しかし陣地構築の疲労と栄養失調で、兵士は次々とマラリアに倒れた。Iさんもマラリアで動けなくなった。野戦病院を船で転々とし、敵機空襲をかいくぐりながら、ジャワ島スラバヤに戻ったのが1943年10月頃。やっと清潔なベッドでまともな治療を受けて、3ヶ月間入院した。ケクワに戻れたのは、船便の都合で44年3月頃。制空権をすでに完全に奪われており、命からがらの船旅であった。

パプア人に関する記述は、最初の接触から、人種、部族集団、縄張り、衣食住、日常生活、装身、保健衛生、数の数え方、葬儀、祭事と生活全般に亘り、たいへん興味深い。男はペニスサックだけ、女は褌だけの格好なので、彼は何度も原始人とは書いているものの、豊かな食事、余裕ある生活、慣習の合理性に幾度も感心している。

文化人類学は戦争体験記の本筋ではないので割愛するとして、3日連続のお祭りの話だけを紹介する。

招待されて、中隊から三人が参加。部落に着くと、女達からいきなり泥を投げつけられ、泥だらけにされる。祭りの始まりとして、男女間の泥投げ合戦なのであった。夕方から、ふだんにも増して豪勢なメニューの大宴会。『大きな野豚(猪=バビー)や鳥の丸焼き、焼き魚、サゴ(飯)、果物(榔子、バナナ、マンゴー………)等、盛り沢山、それに椰子酒がある。

満月が登る頃に大舞踏会が始まる。『鉢巻に鳥の羽根をさし、腰ミノや毛皮の尻尾をつけ、耳、鼻に様々な飾りをつけ、大きなレイを首にかけ、女が内側を左回りで、男が外側を右回りに輪になって踊る。手振り腰振り足けり、全身を動かし、今頃流行の女のエアロビクスのようなもの。』これが延々と深夜まで続く。

二日目の午後は、なんと(生きた)ヘビ投げ合戦で始まる。このために数百匹も用意されていた。他二人は逃げ帰る。夕方の宴会は早めに切り上げ、成人式が行われた。その後にまた延々と大舞踏会で、Iさんはもうぐったり。

三日目の午後は、1mほどの「よしず」のような棒の先に火をつけて追いかけ合う「やけど合戦」が始まった。Iさんも参って、中隊に逃げ帰り、寝込んでしまった。宴会も舞踏会も、三日目が最も盛り上がるのだとのこと。タフな人達だ!

原住民とここまで交流できた部隊は、他にはないのではないか。

ニューギニア戦線は、1944年半ばに戦闘は決していた。連合軍はフィリピン攻略を目指して、北岸の日本軍陣地を東から飛び石状に攻略した。連合軍はまず制空権を握り、補給を完全に断って陣地を孤立させ、艦砲射撃を浴びせて、上陸・占領していった。堪らずジャングルに転進した(逃げ込んだ)日本兵を待っていたのは、飢餓とマラリア。大半の命がそれで失われた。

連合軍は南岸は放置したので、偵察機が飛来するぐらいで、Iさんの部隊は地上攻撃を受けなかった。部分撤収で80名ほどに減った後、やはり補給は途絶えている。しかし彼らは全く飢えず、米が尽きても、豊かな食生活を楽しんでいた。

80人という規模も大きな要因で、彼ら自身の漁労や採集で取り尽くすこともなかった。ところが北部陣地の場合は、1~2万人の規模である。予め大規模な耕作でもやっていない限り、忽ち周辺の食料資源を食い尽くすし、原住民も支援のしようがない。

兵隊が取ってきた魚、貝、卵(火喰鳥の卵一ケで飯盆一杯あった)は当然の事、パプア人が大きな野豚(猪)やトカゲ、海亀など色々な物をよく持って来てくれた。到底一度には食べられずに、くん製にしたり漬物にして加工保存した。

代金代わりにタバコや菓子など与えていた。多すぎて困ることも度々あった。反面我々も後方よりの連絡輸送も途絶え、交換物資に困るようになった。兵隊の知恵でビールびんやガラスの破片(こわして髪剃りに利用)空き缶、シャツ、パンツの衣類を与えて喜ばせていた。

蓄音機を聴かせて不思議がらせたり、軍用トラックに乗せて喜ばせたこともあったという。

その頃の日常は、

・・・よく偵察に出かけた。万一を考え兵器類は一切持たずに二~三日分の食糧を携行して(時には二人で)出かける。五~六人のパプア人がカヌーを漕いでくれる。計画をたて、あの川、この部落と次々回り、その間は当然パプア人と寝食を共にする。ある時は大きな「ワニ」と出会い、ある時は火喰鳥(駝鳥の一種)や大トカゲにも出会った。珍しいやら恐ろしいやら、又部落に入ると酋長が異状の有無を報告してくれた。猪の肉や鳥の巣、果物など沢山の土産をくれる。これらを食べながら次々と回った。

敗戦の色濃くなった1945年5、6月頃、『北岸の日本軍二千人が南岸に移動しているので、これを救出せよ』との指令を受けた。指定場所はパニアイ湖である。

GoogleMapsより

パニアイ湖はほぼ 10km×15kmで、標高 1754m、面積は 154km^2、猪苗代湖の約 1.5倍。現代の目で見れば、高原の別荘地として好適な場所である。陣地からは直線距離90kmほどだが、平地は川を遡れるとしても、険しい地形を2000m以上も登って峠越えしなければいけない。

早速元気なパプア人を三十人ばかり招集し、食糧、医薬品などは持参、救助に出ることになった。・・・それぞれに二~三十キロの荷を背負わせた。我々も・・・衛生兵、通信兵等六~七名のキャラバン隊をつくり、山に登った。道中道はなく、地図と磁石と無線を頼りに山頂からの方向を確かめ、進路を決めて歩いた。三十センチもある湿地の苔を踏み、木を倒して橋をつくり、ロープを張って岩壁を登り、ジャングルのカズラを切って歩いた。

一週間位で目的地ウイッセル湖(パニアイ湖)についた。出会った二千人の部隊は約二百人となり、戦友の遺骨を背から首にかけ、破れた衣服、伸びたひげ、やせ細った哀れな姿、パプア人に見られ恥ずかしい気もした。同僚友軍のこの姿を見たときの我々の気持ちは表現できない。忘れられない。』(注:末尾のコメント参照)

一日休養して下山した。とにかくこれらを救出して無事帰隊、往復十一日かかり疲労困憊、何人かが入院し苦しい思い出であった。これを成功させた最大の協力者はパプア人の若者であった。彼等は何の不服もなく喜んで協力してくれた。ただただ感謝の外はなかった。

1945年8月7日か8日、Iさんがいつものように部落廻りして駐留地に戻ると、広島が大変だと言う。

希望して戦地に出て来た我が身は今健在、残った同僚はどうなったか。市内の親せき、友人の安否はと、夜も眠れなかった。・・・思えば人間の運命はどこにあるものか分からない。広島に残っていたら私もこの原爆の犠牲になっただろう。同僚から「無理して行くな。飛んで火に入る夏の虫という事を知るか」と言われ・・・』てこの地に来たのであったが。

紹介その6で記したように、広島原爆は陸軍第5師団を狙ったものであり、広島城にあった司令部の地上部分は壊滅している。

終戦は、敵側メルボルンの日本語放送で知った。半信半疑だったが、数日後に本部から通報を受けた。しばらく平常通りにしていたが、オーストラリア軍がいよいよ武装解除に来ることになり、戦争が終わって日本軍は引き上げるとパプア人に伝えると『一斉に皆が大声で泣き出した。

数ヶ月後ぐらいか、『いよいよ移動となり片付け整理、不要品一切パプア人に与えた。身の回り品のみ持参し撤収、パプア人も部落総出で手伝い、最後までまことよく協力してくれた。

「出発」海辺で手を振り、肩をたたいて別れを惜しみ、迎えの舟艇に乗ったのである。見送りの多くのパプア人が砂浜にころびながら泣きさわぎ、大きな声を張り上げ、砂浜を走る者、名残のつきないものがあった。

Iさん達は、西ニューギニアを時計回りに、自活しながら次々と集結地に向かった。1946年5月ようやく北岸のホーランデアに着いた。ここはかっての激戦地で、連合軍のフィリピン攻略基地になっていた。今は日本軍捕虜の集結地である。米軍が残していった物資が豊富で、与えられた食事を食べきれないほどで、敗因の一端が伺えたという。

約1か月間を収容所で過ごし、リバティ艦でいよいよ帰国へ。そして、

無言で見守る朝もやが晴れて、次第に陸地が見え出した。小舟が見えた。陸地だ。松が、岩が……和歌山県田辺港に入港、日本を出て三年半、感激の帰国であった。

===

パニアイ湖からの救出について、そのものズバリの記事は見つけられなかった。基礎知識として、このブログが大いに参考になる。

水上機にとってはパニアイ湖は天然の飛行場であり、連合軍側に使われないように、日本軍の守備隊約 70名が1944年3月から駐留していたという。彼らは、湖の北西側の海岸から川沿いのルートで到達している。

しかし約1年後、地元民に襲われて、守備隊の 40~50人が死亡した。高原の生産性の低い土地で、70人のよそ者が食料を調達するのは難しい。貴重な豚を強奪に近い形で日本軍兵士が徴発するなど、食料を巡る軋轢が続いていたところに、女性にイタズラしたのが切っ掛けで、地元民の怒りが爆発したのだという。

その顛末は、本多勝一「ニューギニア高地人」にも書かれている。

守備隊が助けを求めたとすれば、時期的に符合するが、人数が合わない。200人を救出したのが本当だとすれば、170人ぐらいの兵隊が北岸からここまで辿り着いて合流したことになる。

始めの図で、1944年5月17日に進攻されたサルミ陣地から転進した(逃げてきた)兵隊かも知れない。時間的にはピッタリ符合する。170人或いは200人としても、生存率はそれぐらい低かった。

=== 「重荷五十年」の目次に戻る⬆   その13に進む➜


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です