「重荷五十年」8.戦時中の農村生活 ‐ 戦没者遺族 ‐

Syさんは終戦当時22才、自宅で夫と共につつましいお盆を過ごしていた(はず)。

寄稿者の中で、Syさんは最も不運ではないかと思われる。近親者が4人も戦死している。

彼女は8人兄弟の3人目、一人娘として生まれた。兄2人は、1940年に出征した。前回(その7)のFさんと同時期と思われる。母親は身体が弱く、Syさんは弟の面倒、野良仕事、労働奉仕、婦人会などで忙しくしていた。

1941年春、父親から突然、同じ部落の青年の所に嫁入りを勧められた。兄の友達だったが、まだ早いといくら断っても父は聞き入れてくれず、Syさんは仕方なく『出征する一ヶ月前に結婚しました。』(この記述から、一か月後の出征を承知だったと思われる。)

まもなく夫は広島へ入隊して三ヶ月の教育を終わり、直ぐ戦地に行き、半年過ぎには、戦死の公報があり、悲しんだことはきりもありません。』 その後、Syさんは仕方なく実家に戻った。

1942年春、Syさんは(実家とは少し離れた)今の家に嫁いできた。結婚15日目に、夫に赤紙がきた。二度目の召集だった。

これはどうも予期してはいなかったようで:

私も別に驚きません。覚悟はきめていたのです。こんな不幸な運命に生まれついているとあきらめ、決心しておりました。・・・出征兵士の妻になった上は、家族、両親を守り、百姓を守りぬこうと硬く決心して頑張りました。これから嫁の努めが始まるのです。モンペ姿に白エプロン、国防婦人会のタスキで毎日毎日千人針です。一枚終わるまで千人のお方にお願い、大変な事でした。・・・

牛に犂(すき)を引かせて田起こし。出典はこちら

続いて様々な農作業の苦労が、いっぱい綴られている。一つだけ記すならば、『田引きの牛使いが恐ろしくて、だんだん慣れて引く様になり大変でした。 

図のように、犂(すき)を引かせて田起こしや、馬鍬(まぐわ)を引かせて代かきなど、牛は重労働をこなす動力源だった。牛を手綱一本で操るのは、かなりの熟練と時には腕力を要し、容易なことではない。

当時は一生懸命働いて作った米麦も全部供出してし戦地に出し、配給を受けて、少しずつ食べていたのです。食糧不足でした。芋ガユを食べて本当に苦しい生活でした。

政府は農民から作物をほぼ全て取り上げて、ぎりぎりの量だけを配給として与えたのである。江戸時代の百姓の方がよほどましである(江戸中後期の年貢率は実質30~40%と言われる)。男の百姓が徴兵されることはなかったし、ましてやお殿様のために死ねと言われることもなかった。

プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争」より

昭和十八年でした。実家の兄二人戦死の公報が有り、家では義弟が戦死、次々不幸なことが続き、目の前は真っ暗闇でした。私方だけではありません。あちらでもこちらでも悲しい知らせばかりでした。いくら泣いても両親をどうして慰めてよいやら、気の毒でたまりませんでした。

大日本帝国末期は、国民にとって、日本史上で最悪と思われる苛酷な時期であった。労働も、財産も、命も、言われるままに差し出した。それでも一揆もなく、不満を表に出すこともなく、みんなで耐え我慢した(させられた)のは、教育勅語教育による「洗脳」の成果である。国民全員が天皇一神教の強制的信者という、世界史上でも例を見ないほど統制されたカルト国家であった。

十九年の春、主人が広島内地、勤務満二ヶ年で召集解除になり、無事に帰る事が出来ました。

Syさんの不運はようやく終わった。終戦後に子供たちも生まれ、物資には不自由したが、いろいろ作物を作って食べるには困らなくなった。

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