「重荷五十年」7.戦争コボレ話 - 日中戦争 –

Fさんは終戦当時26才、軍属として南京の衛生部隊に居た。

Fさんの手記は、前回(その6)のKさんとは好対照である。長くて、36ページもある。まるで映画の脚本のように、場面が飛び飛びに切り替わり、出会った人との思い出を中心に、備後弁の饒舌な会話や、当時の歌謡曲、軍歌、句もあって盛り沢山である。続編もあり、書き切れなかったエピソードを記している。

文芸作品としては、22の手記の中で最も面白いのではないか。ただし記録としては、順序を掴むのに苦労する。以下に、彼の手記を時系列で辿ってみる。

Fさんは1940年5月出征した。広島で輜重(しちょう)隊に編入され、補充兵として南支のどこか『熱帯の瘴癘(しょうれい)の地』に行かされることになった。

出発2日前、だれも会いに来るはずもないのに、Fさんはふと面会所に行ってみた。思いがけず呼びかけられたのは、同級生のM子さんだった。南支には彼女の義兄も駐在中とのことで、手帳に名前を書いてくれた。階級を聞くと、中隊長だという。『ヤレヤレ之がどうなりゃー、雲の上の人である』と思ったが、厚く礼を言って別れた。

1940年5月28日、Fさんの部隊は『広島市民の歓呼の声と日の丸の旗の波で送られて宇品へ向った。』 父母と親戚2人と最後の昼食をして、いよいよ乗船。万歳万歳の声と軍艦マーチの音の賑やかな出発風景だった。

(すでに占領済みの)広東省広州を経由して、輸送船から欽州に上陸した。真夏とあるので、前回(その6)のKさん(マラリア罹患)とちょうど入れ替わるように、Fさんは送り込まれた。南寧から、さらに国境に近い寧明で、輜重部隊に合流した。

Fさんが指定された班に行くと、『大髭を生やした、フンドシ一枚の古い兵隊』がむっくり起きて、「訓示」を始めた。古参兵は、1937年7月7日(盧溝橋事件当日)に召集された第一次動員で、ほぼ3年間ずっと第5師団に従軍したようだ。長城戦、太原攻略戦、除州会戦、広東攻略戦、次はノモンハンに向かう途中で中止、一転して南寧に送られてきたという。前々回(その5)のFさんが、もし(除州会戦で)重症を負わなかったら、この古参兵のようになっていたかも知れない。

ワシラは、支那を北支中支南支と支那中駆け回った。応急動員じゃ。ワシラは、殺人、殺人未遂、放火、放火未遂、強盗、強盗未遂、強姦、強姦未遂、ありとあらゆる事をしてきた。内地へ共居たら、命がなんぼあっても足りゃあせん。これからお前たちにそれを教育する。』 生々しい侵略と加害の実態である。

マジェンダは手記に登場する地名。「図説・日中戦争」より、加筆&トリム。

彼らが仏領インドシナ(現在のベトナム、仏印と以下略記)国境近くに居たのは、仏印に進駐(侵略)するためである。欧州では第二次世界大戦の真っ最中であり、フランスはすでにナチス・ドイツに降伏し、ビシー政権となっていた。

1940年9月23日がいよいよ仏印進駐の決行日。

「ガラガラカポカポ」 輜重車は輪立ち踊りて・・・砲声いんいんと轟く中 泥にまみれて汗にまみれて 唯ひたすらに南へと進む 寧明より鎮南関へ そしてそして 仏印へと

Fさんの手記は斯くも文学的である。

馬を牽く彼らをトラックが次々と追い越す。赤十字のトラック上から、Fさんの名前を呼ぶ衛生兵が・・・叔父だ! 思わず手を振ったが、一瞬で通り過ぎた。

Fさんの部隊は、仏印の国境の町・ドンタンで暫く野営した。晄々と照る安南の月を戦友Tと眺めつつ、阿倍仲麻呂(遣唐使の帰途に難破し、この地に漂着)を偲び、「皇国の母」を唄うとTは涙を浮かべながら聞き入っていた。

雨の日は輜重兵には辛い。馬も兵隊もドロドロになる。水が悪いので下痢が付きものだが、チリ紙がすぐなくなる。古本も雨で使えなくなる。応急動員の古参兵が幅を利かすのも面白くない。馬の口取りを何年やらねばならないのか?

 (北部)仏印進駐は短期で完遂し、Fさん達はハノイ、ハイフォンを経て、10月には上海に転進。部隊の再編成により、Fさんは1941年1月3日衛生隊に転属し、上海の第二野戦病院で教育を受け衛生兵となった。上海では叔父や郷土の知り合い2人と再会した。

Fさんの衛生兵としての初任務は、1941年4月19日の浙東作戦で、寧波の海岸・鎮海に敵前上陸する。上海に隣接する地域だが、日本軍の支配が及んでいなかったようだ。

その2日目、『狂った様な追撃砲が、チェツコ機銃が、砲弾が、すさまじい音をたてて傷者の治療に狂奔する私達の頭上をかすめる。ああ之が戦争なのだ。

彼自身も区分前進中に『左腸骨部右臀部穿透性貫通銃創(直腸貫通)』を負う。

どうして助けられたかはよく覚えないが戦友達により民家に引ぱりこまれ、直ちに軍医の手当を受けた。相当な重傷でうつ伏せたままで動く事は出来なかった。其の後私達は包囲状態となり「どっちみち俺は重傷だから置いて行ってくれ」と言うと「馬鹿を言うな」と・・・敵弾下戦友の決死の救出で漸く重囲を脱する事が出来た。

Fさんは上海、広島、東京へと移送され、日本赤十字病院で手術を受けた。

場面はがらりと変わり、1944年4月、Fさんは軍属として南京の衛生部隊に勤務していた。ある日、同級生の兄・Nさんと出会う。同級生はすでに戦死。Nさんは36才ぐらい。その頃は、そんな年の人も召集されていた。彼は『防瘧隊(ぼうぎゃくたい)』に所属し、マラリアを媒介する蚊の発生を防ぐのが任務だった。その後も2回、彼と遭遇し、互いに無事生還した。

1944年7月22日、Fさん達は衡陽への派遣を命令される。厳しい攻防戦の最中に、コレラが大流行という。長江を遡り漢口(武漢)に。その辺りから毎日空襲にさらされた。衡陽は8月9日に陥落したものの、制空権は米国空軍に握られており、夜間に移動を余儀なくされた。やっと衡陽に到着したのは、11月11日。

衡陽の病院では一日何百人の死者がでて、一時はどうなるかという状態であった。』 冬になってようやく下火となる。

1945年1月15日、Fさん達は南京への帰還命令を受ける。車、舟を乗り継いでの夜行軍で、なんとか漢口に辿り着く。船での長江下りはもはや危険と言われたが、ちょうど出る便に乗ってしまう。

果たして、2月9日、船は機雷にやられて、座礁・炎上。

粉雪を 汽笛しきりに 遭難船』、『呼び叫ぶ 声も凍りて 遭難船

患者など船と共に犠牲になる者もいた。やっとの思いで脱出したFさん達は、さらに船を乗り継ぐなどして、2月18日南京に帰着した。

1945年7月末、海州への出張を命ぜられた。南京の隊で培養した発光バクテリア(蛍光菌)を伍長と共に持参する。

徐州は広い。地平線の彼方まで田圃が続きかつて日支両軍が死闘した徐州はここかと、窓外を飽くこともなく眺めたのであった。

場面はまた変わり、同僚のNさんから、コーヒーをご馳走になりながら、Fさんは長い話を聞かされた。

内地からの慰問袋は、抽選で割り当てられる。Nさんに当たったのは、北海道根室の若い女性からの袋で、中に写真が入っていた。文通が始まり、心が通じ合った。Nさんが南京に落ち着き、(軍属なので)営外居住できるようになると、ここに来たいと言う。『女の一念岩をも通す』で、根室から長崎まで汽車で二昼夜半、長崎から船で上海、南京へ。南京下関港で2人は初めて会い、抱擁した。1942年当時、南京は平穏で、物資も内地ほど欠乏しておらず、子どもも生まれ幸せな生活であった。しかし彼女は病気になり、帰らぬ人となった。

Nさんは目をシバタタセ乍ら永い永い話を終った。南京の夜は次第に更けていった。

1945年8月15日、玉音放送は雑音でよく分からなかった。

山下少佐は「天皇陛下も苦しさにたえて、いよいよ決戦への御放送であった。吾々も御誓旨に答えなければいけない。心を新たにしてご奉公の誠をいたそう」と言うのであった。結局は、無条件降伏であった。

9月初め頃、重慶軍が南京にやって来た。Fさんたちの舎内に気安く入って来て、『「もう戦争は終わったのだ、もうあんたらとは朋友(ポンユー)だ」』と言う。

戦後蒋總統は中国全土に対して、次のような布告を発した。「全中国軍民は日本軍民に対して仇を仇で返すべからず、仇には情を以て報いよ」。流石に、孔子、孟子を生んだ国の總統である。・・・(日本人が)二百万も二百五十万も居たであろうが、速やかに日本本土に引き揚げる事が出来たのは、蒋總統と中国人民のお陰であろう。

Fさんが復員時に乗ったリバティ船。米国で大量に建造された規格型輸送船で、戦後は復員用に米国から供与された。Wikipediaより。

それから何か月か経ったであろう。私達は南京を出発して上海より復員船に乗った

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