Tさんは終戦当時16才、学徒動員により呉海軍工廠で働かされていた。
彼は1944年6月に動員され、『私たちは、戦争に勝つために命を惜しまず国のために尽くすことが、人間として一番大事な事だと小さいときから教わっていましたし、それを信じていましたから、誰も不平を言う者はいませんでした。』
呉海軍工廠では、戦艦大和を始め、多数の軍艦を建造/維持/修理していた。Tさん達に与えられた仕事は、潜水艦内部の配管取りつけ/修理で、次第に慣れて懸命に働いた。
しかし彼らの生活環境はとても厳しかった。寝泊まりは、呉駅から東に一駅、阿賀駅の南側にある大きな軍用宿舎だった。10畳間に10人づつ、5時起床、~1.5時間かけて工廠へ(呉駅から遠い)、7~19時まで仕事、20時半ごろ宿舎に戻り、やっと夕食という日々。風呂は一週間に2回、冬でも暖房なし。休みは一か月に2回だけ。正月も2日からふだん通り。
『ご飯は毎日、朝も昼も晩も大豆の絞り粕や麦を混ぜたものですが、腹ぺこですから、まずいなどと思う者はいません。それどころか量が少なくて食器に半分ぐらいしか無いので、もっともっと食べたいと思っていました。ほかには食ベ物が全く無く、一日中ひもじい思いをしていました。』
客観的に見れば、奴隷というしかない。歴史的にも他に例がないほどの酷い待遇で、それが全国で行われていた。自国民の学徒全員に奴隷労働を強いた国、それが大日本帝国である。暴力よりも、教育勅語教育でここまで奴隷に仕立てたのである。天皇一神教を奉じるカルト国家は、他の独裁国家と比べても、異次元の恐ろしさがある。
1945年6月22日10時頃、空襲警報が鳴り、高射砲を撃つ音が聞こえた。Tさんは慌てて山側に逃げ、防空壕(ただの横穴)へ駆け込んだ。轟音、爆風、地響き、硝煙の臭いが1時間半ほど続いた。
横穴から出ると、呉海軍工廠は全壊し炎上中だった。仕事場の潜水艦は水没し、艦橋だけを水面上に見せていた。犠牲者は400人以上といわれ、彼も凄惨な現場を目撃した。幸にも、同じ学校の生徒は全員無事だった。
Tさんの宿舎は、中央の鉄道トンネルを抜けてすぐ、阿賀駅の南側にあった。
7月1日夜、宿舎で就寝する頃、空襲警報が鳴り、阿賀駅の北側山麓にある壕(横穴)に、大勢の人と逃げ込んだ。呉市街への焼夷弾空襲で、呉方向の空は真っ赤になっていた。宿舎は無事だった。
翌日、汽車は不通で、歩いて工廠に向かったが、呉市内は燃え燻っており引き返すしかなかった。『火は二~三日も燃え続けて、呉の市街は全くの焼け野が原になってしまいました。』 犠牲者は2000人以上ともいわれる。
7月末には5日間に亘り、呉港に浮かぶ艦船への空襲が『定期便』のようにあった。B29ではなく、身軽な艦載機が編隊で現れ、急降下爆撃を繰り返す。9隻が着底(沈没)し、7隻が大破したという。
1945年8月6日、Tさんが工場にいると、『突然、周りがものすごく青白い色に光り・・・大きな音と共に急に工場全体がガタガタと揺れだしました。』 昼食の時、『北西の空に、入道雲の固まりのような大きなきのこ型の雲』を見た。(爆心地から直線距離で21km)
広島市からの生徒はすぐに帰された。そのうち、呉に戻ってくる者を通して、Tさんは広島の惨状を具体的に知ることになる。さらにソ連参戦、長崎原爆のニュースも入り、『日本が勝つのは無理のような気がしていました。』
8月15日、陛下の放送があるから集まれと指示されたが、Tさんは
『せっかくの休憩時間がとんでしまう。と、友達何人かと涼しい陰で休んでいました。どうせ言われることは「本土決戦が近いから、皆が一層の奮励努力をするように」と決まっていると話していました。』
この記述から、Tさん達の洗脳がかなり解けてしまっていることが窺える。あんなに厳しい生活環境、あんなにやられっぱなしの戦況で、現人神も教義も無力と感じていたのだろう。
Tさん達は、二日後に動員解除となり、それぞれ家に帰っていった。