「重荷五十年」3.終戦五十年に想う - 学徒動員/空襲 –

3Sさんは終戦当時16才、学徒動員により国鉄姫路機関区で機関助手として働いていた。

姫路城内にあった名門校の中学生だった彼は、1944年の始めに動員されて、実は喜んだ。機関車の勇姿に感動しただけではない。

又その日より待ちに待った、特別配給のコーリャン飯、約一合のチケットをもらい、食堂で食べた事は忘れることができません。そのおいしかった事、いつも顔のうつる程、うすい雑炊しか食べていなかったのに、それはまぎれもなく固形物であり、うすい赤色の温かい食物は100%コーリャンばかりで、かるく塩をふっただけで、何のおかずもなかったが、久し振りに食べたと云う実感がありました。

コーリャン。出典はこちら

コーリャンはモロコシの一種で、米のように炊いたり粥にする。見た目が赤っぽく、赤飯のように見えるが、タンニンを含むために不味いと言われている。

それをこれほど喜んで食べるとは! 彼の父親は中学校の教員で、貧乏とは言えなかったはずだが、大勢の妹たちもおり、乏しい配給でかくも食料不足だったようだ。

Sさんの仕事は、炭水車に乗り(煤煙にまみれながら)石炭を投入口へかき寄せることだった。やがて本来の職員が召集されるにつれ、機関助手を任されるようになった。機関室でボイラーを焚く仕事である。姫路機関区は当時、70両もの蒸気機関車が配属された重要拠点で、東は梅小路(京都)、西は岡山、北は和田山(播但線)までを往復していた。

1945年6月22日朝、Sさん達の列車が和田山に向かい、福崎駅を通過した頃:

突然、本当に突然、キーンーと金属性の音をひびかせ、地上すれすれの超低空で艦載機グラマンが姿を現し、機銃掃射が始まりました。風防ガラスの中のパイロットの顔がはっきりと見え、車体に当る機銃の音と、レール、枕木、グリ石のはねる音は恐ろしく、夢中でとび降り、トウモロコシ畑に身を伏せました。機関車ばかりを狙って、二度、三度くり返し、機銃掃射した後、去っていきました。

その日、姫路市内も川西航空機姫路製作所を中心に空襲され、Sさんの自宅も焼失した。家族は全員無事。その後、母と妹たちは父の実家に疎開。姫路は7月3~4日の深夜にも空襲され、総戸数の約4割が焼失した。2回の空襲を合わせて、死者510名という。

彼と父は市外で間借りし、乏しい食料で、厳しい仕事を続けた。空襲や戦闘機からの機銃掃射は日常となって、終戦まで続いた。

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