「基本的人権の尊重」が現代の道徳原理

【道徳教育全般へのコメント】  <pdfはここ>

道徳的な考え方は、古くは十戒など宗教的な教えや、儒教など思想・倫理として様々な形で表現されてきた。共存共生の社会生活を営む上で、人類があまねく必要としてきた概念である。必要性は普遍的でも、その内容は年代、地域、宗教などにより様々であり、互いに矛盾する事柄も多く、中身は普遍的ではなかった。

フランス革命の「自由、平等、友愛」の理念を機に、長らく続いた支配と被支配の社会構造の終わりがようやく始まった。同時に、共存共生の社会生活を営む上での基本的考え方(=道徳的な考え方)は、「人権」という概念を得て急速に普遍化し、現代の世界では『基本的人権の尊重』として集約され、広く人類の共通認識となっている。1948年の世界人権宣言や日本国憲法「第3章 国民の権利及び義務」に謳われている通りである。世界人権宣言の冒頭行:

「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」

が述べているように、人類が長らく求めてきた普遍的な「道徳的な考え方」は、「基本的人権の尊重」として結実した。これは人類社会の進化の成果である:

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

「個人の尊重」と「公共の福祉」が基本中の基本

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法の中でも、第13条が最も重要で象徴的なものとされる。つまり憲法で規定される日本国の目的は、「個人の尊重」を実現することと言っても過言ではない。「個人の尊重」はもちろん各々の自由や権利を含んでおり、社会も学校も尊重されるべき多数の個人の集まりなので、一般には互いの自由や権利が衝突する。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第12条後段は、倫理的、道徳的指針を示すものとされ、「公共の福祉」という難しい表現が初めて登場する。これは「個人の集合としての公共を全体として良くすること」ぐらいに筆者は解している。「自分を尊重してもらいたいなら、他も尊重せよ」との単純な平等原則かも知れない。従って、他を犠牲にして自分だけを利することは、よほど特別な場合(救急搬送など)を除いて、認められないだろう。「公共の福祉に利する」という原則は、普遍的で分かり易い道徳指針と言える。

「一人一人がかけがえのない存在」は、「個人の尊重」の本質を平易に表現したものとしてよく使われ、正に道徳的な言葉である。誕生の瞬間から、対人関係、集団や社会との関わり、さらには国際的視野についても、この認識が出発点であり目的地であろう。

道徳教育は日本国憲法と整合し、逸脱してはならない!

日本は法治国家であり、最高法規は日本国憲法であり、行政の一環たる公教育も日本国憲法に基づいていなければならない。道徳教育は日本国憲法と整合するものでなければならないし、憲法から逸脱してはならない!

「道徳」の定義は、例えば「社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。」であり、「良心」「善」「悪」を論理的普遍的に定義することは難しいので、いわゆる学問教科には馴染まない。特に「善」「悪」は相対的であり、しばしば特定の価値観に結びついており、たいていの場合は宗教的である。

「社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準」は、すでに憲法と法律により大枠は定まっている。規準をさらに詳細に論じたいのであれば、憲法の本来の趣旨、特に「個人の尊重」と「公共の福祉」に立ち返って考えるべきである。そうすれば始めて、学問教科になり得る。
非論理的に「良心」「善」「悪」を持ち出してはならない。ましてや行政が、道徳の範疇をも逸脱する価値観(文科省22徳目に多数混入している)を押しつけることは決してあってはならない。それは極めて有害であることを、日本の不幸な歴史が教えている。

道徳教育は、憲法や法律の趣旨と整合し、特に「個人の尊重」と「公共の福祉」に依って、徳目を平易に解説すべきである。もしある徳目が憲法、法律、あるいは科学的根拠に依っても説明不能であれば、その徳目は授業で扱うべきではない。


戦前の「教育勅語」と「修身」は、道徳の範疇をも逸脱した特定の価値観を押しつけた悪い見本である。「教育勅語」は天皇・国家への絶対的忠誠を説き、「修身」の教科書はそれを実践するための手引書のようなものであった。型にはめた行為の基準や「善」の概念を上から押しつけ叩き込み、いわば生徒を絶対服従のロボットに変える教育であった。

教育勅語の発表(1890年)から40年経った1930年代には、日本人は「忠君愛国、滅私奉公、忠孝一致、一億一心、神州不滅」ですっかり洗脳され、どんな無理・無謀でも精神論で通してしまうようになり、いわば国全体がカルト化していた。国民は満州国建国も国際連盟脱退も諸手を挙げて歓迎し、あの破滅的な戦争に突き進み、「一億総玉砕」の存亡の危機に至った。

大日本帝国が作った教育勅語教育の仕組みが、国民に浸透すればするほど国全体をおかしな方向に追い込み、大日本帝国自体の墓穴を深く深く掘り込んだのである。どうにも引き返せない道に入り込み、破滅したのである。世界史上でも類を見ないほどの失敗国家である。
このような愚行を決して繰り返してはならない。


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